但馬 | 竹田城 |
ファイルNo1526 |
まさに天空の城
@ たけだじょう |
道案内 | ||||
国道2号線姫路バイパスの姫路ジャクションから播但連絡道で80Km先(あるいは山陽自動車道の山陽姫路東インタより播但連絡道で70Km先、中国自動車道福崎インタより同連絡道で55Km先)の和田山インタを下り、国道312号線を姫路方面に500m先の加都の信号を右折し、1.7km先を左折、山城の郷という施設を越えて2.2km先が中腹駐車場です。帰りは反対側に降りて行きますとJRを越え、円山川を越えると国道(JR竹田駅の南側)に出ます。 車道は一方通行になってますので、注意! また、冬季期間12/21〜3/8までは車道は通行止め(徒歩は可)になりますので、合わせて注意! 徒歩の場合は、竹田駅からは法樹寺横から徒歩800mで40分となっています。 <国道では国道312号線をひたすら播但連絡道に沿って北上するか、あるいは、国道9号線で福知山から30Km先の一本柳の信号(JR和田山駅近く)で左折し国道312号線に入り5Km先です。> |
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訪城備忘録 | ||||
本格的に城巡りを始めて、まだ、100城程度の頃、2000年5月に行った後、なかなか再訪が出来ませんでした。あれから8年余りが経て、2008年10月に再訪しましたが、この城の光景は圧巻です。前回訪城の際の天守台から見る南千畳の光景に感動した気持ちは今も変わらないです。まさに、天空の城!地元の方の整備(草の伐採)も配慮されていて、本当に感動の城です。虎臥山の山頂にある総石垣の城跡は美しいの一言以外に形容詞が見あたりません。天守台のある本丸を中心に北千畳側と南千畳側に羽を広げたように配置された郭はまるで大鷲のよう。この山上にこの遺構はすごい。 2013年01月再訪 雪の竹田城を見ようと再訪しました。本当は雲海も見たかったですが、時期的に少し外れていたので無理でした。日の出前から50人程度の方々がお出でになりました。快晴に白い雪と石垣、コントラストも素晴らしい。 2013年11月再訪 念願の早朝の雲海を見に行きました。しかし、すごい人気で、城跡は人だらけの状態でした。 2016年07月再訪 夏であってもあいかわらず人気のようで、朝早くから城跡には人がたくさん。今回は城跡そのものには行かないで、立雲峡からの遠望と麓からのライトアップを見学しました。ライトアップは天守など建物のライトアップとは違いますが、幻想的ですね。 中腹の駐車場から大手道コースを歩いて行くと10分ほどで大手門跡に着きます。ここから北千畳(郭)に入り天守台へ向かいます。大手門手前の尾根(和田小学校への標識有)を進み(一旦、急坂を降りますが)ますと、竹田城の出城の観音山砦に行けます。10分もあれば行けます。また、北千畳の西側20m下には登り石垣があるとの事ですが、私は残念ながら行けてません。北千畳から三の丸を抜けて本丸と天守台です。ここの石垣は一部積み直しはあるもののほとんどが当時のままというのもすごいです。天守台から南千畳、裏手の花屋敷などの郭もすべて石垣。大城郭ではないものの、山上にここまでの総石垣の城が残存するのはすばらしいです。 |
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但馬守護の山名持豊(宗全)が此隈山城の出城として永享三年(1431年))に築城を開始し嘉吉三年(1443年)に完成し太田垣光景が入ったと伝えられます。その後、太田垣氏は六代続きますが、羽柴秀吉(豊臣秀吉)による但馬侵攻<永禄十二年(1569年)と天正五年(1577年)から天正八年)>の中で天正八年(1580年)には竹田城は落城し、太田垣氏の支配は終わりました。当初、秀吉の弟の羽柴秀長が城代でしたが、秀長は出石の有子山城に移り、竹田城は桑山重晴が入りました。天正十三年(1585年)に桑山重晴は和歌山城に転封となり、赤松広秀が城主となりました。赤松広秀(後に斎村政広と改名)は、関が原の戦いでは西軍に属して田辺城(舞鶴城)攻撃に参加しましたが、西軍敗戦後に東軍に加わり、鳥取城攻めに加わりましたが、城下の大火の責めを負い鳥取で切腹し竹田城は廃城となりました。広秀は当初西軍に付いたため切腹という形で生涯を閉じましたが、竹田城主時代は名君であったようです。広秀の死で赤松氏の命脈も途絶えたことになりました。 |
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フォトページ=雲海の竹田城☆☆ | ||||
追加写真のページ2=雪の竹田城☆ | ||||
追加写真のページ1⇒⇒⇒秋の夕暮れの竹田城☆ |
立雲峡からの竹田城など |
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