越中/ | 古国府城 +越中国守館+武田屋敷 |
ファイルNo0067 |
@ ふるこふじょう |
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【道案内】 高岡古城公園(高岡城)から県道24号線で北上します。江尻の信号で県道8号線をガードで下を通ります。江尻の信号より2.1Km先の米島の信号で直線し、国道415号線と合流します。750m先、城光寺橋で小矢部川を渡り矢田の信号で斜め左折し国道415号線に入り、1。5Km先の伏木古府の信号で右折し、300m先の左手が勝興寺です。ただ、寺に入りには正面に廻る必要があると思います。または、矢田の信号を直進し県道24号を進み、2km先、伏木駅前の信号で左折し、300m先が寺の正面です。 【現況・訪城記録】 お寺は伏木から坂を上がった先にあり、周囲より高い位置にあります。お寺東西、北の裏手などには土塁と空堀が確認できます これが城の痕跡という事になるのかなと思います。椿の道を入ったところが土塁と空堀が一番見やすいのかもしれません。2023年12月に20数年ぶりに来てみました。2022年、本堂と本坊の式台・大広間が国宝に指定され、唐門、式台門、鼓堂、経堂、宝蔵、御霊屋、台所・書院・奥書院の建物は重要文化財となっています。本堂は西本願寺の八割の大きさがあるようです。 式台門横などにも土塁がありますが、これが城時代の遺構なのかはわかりません。鼓堂の建物がほとんど櫓に見えてしまいます。門は総門や唐門より式台門の方が好きやな(笑) 伏木駅から寺までの坂の途中、旧伏木測候所庁舎のところに越中国守館跡の石碑があります。 【歴史】 古国府城(勝興寺)の周辺は奈良〜平安時代に越中国を統治した国府跡です。越中国府役人(国司)の長官を越中守と言い、歴代国守中でも特に有名なのは大伴家持で5年間余り在任し多くの歌を残しました。城としては神保氏張が天正年間(1573〜91年)に築城したようです。天正十二年(1584年)には廃城になっているようです。勝興寺としては、文明三年(1471年)、蓮如が土山御坊を創建して子の蓮誓が置かれました。その後、南砺市高窪に移転しましたが、火災焼失し、永正十六年(1519年)、小矢部市の安養寺に移転し、蓮誓の子の実玄が安養寺城を築城しました。天正九年(1581年)、木船城の石黒成綱に攻められ焼失します。天正十二年(1584年)、佐々成政が一向宗を取り込むためにこの地(古国府城)の一帯を寄進し勝興寺をここに移転しました。平成十年(1998年)から令和二年(2020年)までかけて大修理がなされ、また、平成七年(1995年)までに主要の建物が重要文化財の指定を受け、その後、令和四年(2022年)に本堂と式台・大広間が国宝に指定されました。 |
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武田屋敷 |
勝興寺のある伏木国府より国道415号を海岸沿いに氷見市方面に進み雨晴の地名で富山では親しまれている高岡市大田に武田屋敷があります。 武田家は武田信玄の弟の武田逍遥軒信綱の末裔と伝えられる。建物は安永年間(1772〜1780)から寛政年間((1789〜1800)に伏木勝興寺本堂が建設された際の余材で作られたという伝承をもつ。 <現地案内板より抜粋 高岡教育委員会> |