近江 | 三尾城 |
ファイルNo3848 |
所在不明の古代城 鵜川林道の石垣は猪垣であるとは思いますが・・・。
@ みおのき |
道案内 鵜川林道沿いの遺構位置 日吉神社付近の遺構位置 見張山 |
||||
琵琶湖の西岸、国道161号線を琵琶湖大橋のところから北上すること約25Km地点、琵琶湖に鳥居が建つ白髭神社のところより約1.4Km先、国道161号線と高島町市街地に入る道(旧161号線)との分岐を斜め左に入り市街地に向かいます。JR湖西線近江高島駅を目指します。近江高島駅の東側は乙女ケ池、大溝城です。駅の西側(城山台側)の北側の道を200m進むと南北の道を直進し約50m先を右折し、約200m先の路地に左折しすぐを左折すると日吉神社です。 (南北の道から回り込むと円光寺、大善寺前を通ります。この道の一番奥が日吉神社です。) 鵜川林道は白髭神社の約2km手前が入口です。 |
||||
訪城備忘録 | ||||
三尾城は位置が特定されているわけではないです。 継体天皇を輩出した古代三尾氏は安曇川周辺が拠点とされ、現在も三尾里という住所が残り、継体天皇の史跡(胞衣<えな>塚)もあります。<えな塚とは赤ちゃんの胎盤などを埋めた所> ここの南西背後の山上の岳山は別名で三尾山と言われます。三尾里の西側には田中城がありますが、ここは古代の山岳寺院跡と言われており、麓に田中神社/三尾神社旧跡があります。あるいは、三尾里の北西側には三重生神社(みおのじんじゃ)があり、これら三尾氏関連史跡と言えるようです。 三尾城所在の有力候補のひとつに長法寺遺跡がありますが、この麓一帯と打下城の背後の山の見張山山頂部について、昭和57年(1982年)の調査で麓には日吉神社(勝野)付近から鵜川林道(鵜川)付近までの長大な石塁が確認されたようです。 猪垣という事ですが、水門跡や風化した石は後に猪垣に転用されたとしても猪垣とは異質なものがあると言われます。見張山山頂にも土塁痕や石積痕が確認されたようです。 2022年8月、鵜川林道側の下見をしてみました。林道沿いにそれらしい石積みがありました。 2022年10月、麓の石垣を探索してみました。日吉神社側は日吉神社石段の中間地点から右手に入り、作業場のような平地を越えて斜面地に入ります。ところどころ水が湧き出ていますのでぬかるんでいます。坊跡の石垣のように斜面に何段も石垣と平地があり、その中には右手へ延びている石垣もあるのですが、藪ではなく倒木の密集地帯があってとても進めない状況で見える範囲で断念しました。 鵜川林道側はゲートを入って直ぐの右手に昭和六十年(1985年)に設置された猪垣の説明板がありますが、ほとんど判読できない状態です。林道の登りをU字カーブで2度登ると右手に林道の支線があります。ここに入ります。林道に沿って石垣があり、奥に行けば行くほど石垣の高さが高くなりました。途中から石垣は左手に移ります。L字にずっと続いていてまた林道に出ました。この林道をまたいで反対側に入るとまた石垣が続いています。その先は段差があって沢がありました。この先も石垣が続いていますが、この辺で断念しました。残念ながら水門は見つかりませんでした。 この鵜川林道周辺については、最初、標高195mの鉄塔のある場所の西側から北側下と推測して彷徨いましたが、それらしいものは見当たりませんでしたので、もしかしたらと林道支線に入って見て大規模な石垣列が見られました。なお、鵜川林道沿いとしては、ひとつめのU字カーブを越え、二つ目のU字カーブの手前左手に残ります。鵜川林道支線の石垣群より石が風化して古く見えますが積んであるところは10mほどでその先は無くなってます。 また、見張山(比高420m)も今回は断念しました。日吉神社側の石垣は坊跡のように見えます。麓には大善寺、圓光寺がありますのでこれの関連でしょうかね? 鵜川林道側の石垣は確かに猪垣でしょうね。長さも長大で、高さもあり、がっちりした石垣列でこれほど大きな猪垣は私は見たことが無いです。 旧志賀町(現:大津市)には百闥と呼ばれる江戸期に構築された大規模な石垣の堤もありますので、長大な猪垣の構築も可能だったでしょうね。この二カ所の麓石垣群は、石は大きく、昔からあった石を転用されたようにも見えます。鵜川林道支線側の石垣には矢穴のある石垣がいくつか見られました。見張山の石塁を見ないとなんとも言えないですが、結局のところ、古代三尾城わからなかったです。しかし、古代のロマンのひとつでしょうか? |
||||
|
大和朝廷、天智天皇の時代に白村江の戦い(663年)に敗れ、九州、山陽中心に古代山城、神護石系山城が築かれましたが、そのひとつとして築かれたと考えられます。朝鮮半島から九州⇒山陽⇒畿内・大和というルートを想定し、そのルート上に古代城は多いですが、三尾城は日本海から直接北から入ってくるルートを想定して築かれたと考えられます。 天智天皇の死後、大海人皇子(天武天皇)と大友皇子が争った壬申の乱(672年)の際、大海人皇子の軍勢に攻められ落城したとされます。 【鵜川林道入り口にある猪垣の説明板の要約】 <1985年説明板設置> 文政四年(1821年)の史料には、享和年間(1801〜04年)に築かれたとされるようです。 |
白山神社付近の石垣 |
鵜川林道の石垣 |