近江 | 小脇館 |
ファイルNo1893 |
佐々木六角氏初期の館
@ おわきやかた |
道案内 | |||
近江八幡市から国道8号線で来ると、安土町の西生来の信号で右折し県道208号線に入り、八日市方面に向かいます。4Km先で国道421号線との交差点の小脇町の信号の200m手前で左折します。水田の真ん中を500m進んだ小脇町(脇)の集落が城跡です。(国道8号線の友定町の信号を右折し国道421号線で小脇町の信号までは6.5km程度です。) |
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訪城備忘録 | |||
脇の集落の入り口に説明板が設置してあります。集落を水路が巡りその外側をちょうど方形状に道路が通っています。大将宮と公民館の辺りが集落の真ん中ですので、往時は主殿でもあったんでしょうかね。説明板が以前は白地でしたが、2021年現在黒地になってました。(笑) 小脇集落の北側に「金柱の宮」跡がありますが、ここは「狛の長者」屋敷の一部であったとの事です。「狛の長者」は朝鮮高麗の人で、この一帯を開墾した方のようです。 近くには赤神山(あかがみやま)の中腹に太郎坊宮があります。正式には阿賀神社といいます。鞍馬の天狗が守護で兄の天狗で太郎坊ちゅうことらしいです。勝運授福の神さんです。この日は天気がよくて本殿前からの眺望はなかなかよかったです。そんにしても、狭い岩場の本殿前にいたのは若いカップル二組と城おやじのわしだけちゅうのはいかがなものか・・・。なお、近くの船岡山のいう低丘陵の山麓に阿賀神社があります。 |
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この館の築城時期は定かではないようです。鎌倉時代初期には近江源氏佐々木氏の本拠の館でした。(佐々木経方あるいは佐々木定綱の時期) 延徳三年(1491年)には金剛寺城に移転しました。 平安末期、平治の乱で破れ関東に落ち伸びていた佐々木秀義は、源頼朝の挙兵に従い平家との戦いに活躍しました。佐々木氏はその功績により近江に復帰しました。佐々木惣領家は秀義の嫡男定綱に引き継がれ、定綱の後は嫡男広綱が継ぎますが、承久の乱<承久三年(1221年)>で宮側に付いた広綱は斬首され、惣領家は三男の信綱が継ぎます。仁治三年(1242年)に信綱がなくなると、近江は四人の息子たちに分割されました。長男の重綱は坂田郡大原荘(山東町)の地頭職を得て大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷(安曇川町)・朽木荘(朽木村)の地頭となって高島氏を名乗りました。三男泰綱が宗家を継いで近江南六郡(神崎、蒲生、野洲、栗太、甲賀、滋賀)を与えられて六角氏を名乗り、四男氏信は近江北六郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智)を与えられて京極氏を名乗りました。 |
太郎坊宮 |
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