近江/ | 壷笠山城 |
ファイルNo1724 |
元亀動乱の舞台の城、石垣も残るが、案内も少なく訪城には注意が必要
@ つぼかさやまじょう |
道案内 ←城跡 ←登山口のひとつの野添古墳群の位置 | |||
国道161号線の下坂本6丁目の信号をJR比叡山坂本駅方向へ曲がり、県道316号線に入ります。400m先でJRのガードと国道161号線バイパス(湖西道路)のガードをくぐります。1.4Km先で道は左折となり、県道47号線を進みます。2.5Km先で右折します。(京阪電鉄穴太駅の手前400m) 平子谷墓地(坂本1丁目)が左側に続きますが、一番奥の右手に駐車場があり、左手は野添古墳群があります。ここよりさらに奥に進むと林道ですが、チェーンがあり、車両通行止めとなっています。一応、人も進入禁止という建前のようですが、この道が一番安全そうなので、ここを進みます。四ツ谷川沿いの林道を、林道入口から1Kmほど歩きますと小さな橋を渡ります。そこから200m程で左へ逆Vに登る分岐林道があります。この分岐した林道を進み、150mほど登ると鞍部に出て、道がY字に分かれます。(左手は青山(青山城)への道のようです。右手(下り)に20mほど進むと、右手に青いテープ・赤テープが木の枝にくくってある箇所が城跡の登り口です。最初は急な斜面ですが、細い山道を進みます。比高で30mほど登ると右手に竪土塁のようなものがある箇所に至ります。この竪土塁を越えたところに山道があります。比高60mほどで尾根道に出ます。ここに、看板の裏にマジックで左手が壷笠山と書いてあります。(右手は神輿山(白鳥砦)、崇福寺跡を経由して滋賀里1丁目、大津市埋蔵文化財調査センターの方に至る林道、途中分岐して、比叡山ドライブウェイの夢見ガ丘展望台に至る山道に繋がっているようです。) 尾根を左手に進むと城跡です。 あるいは、竪土塁の所からそのまま左手に向かって登って行き、途中から右手に直登のような道を登っても城跡下に至ります。 <私は以前2001年7月に、林道が進入禁止の立札があったので、湖の美が丘団地(穴太3丁目)の背後から登りましたが、道があるわけでなく、途中で断念しました。しかし、背後の高圧鉄塔まで登ると、管理用の山道があるようです。この尾根道は、白鳥越えの道に相当する道のようです。> |
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訪城備忘録 | |||
最後の尾根から城跡までは比高で40m程度かな。急な坂道を登り出すと、主郭手前の右手奥の斜面に石垣が残っています。主郭から二段程度下の段郭の斜面です。さらに登ると主郭虎口手前にも二段の石垣がわずかに残っていて、石段が確認できます。城跡は、主郭がほぼ円形で、5mほどの切岸で帯郭が周囲を巡ります。至る所に大石が散乱しており、主郭切岸も石垣の残存があります。主郭、帯郭ともに土塁はありません。主郭の虎口石段は北側、東側にあり、石段、石垣の痕跡があります。西側は尾根から石段を上がり、北側から石段を登るルート、及び、東側が鍵状に石段を行き、虎口に入るようです。西側下谷部には段郭が五段程度連なりますが、大量の人数が駐屯できる余地はないようにも見えます。浅井・朝倉軍は、ここをはじめ、周囲の山に分散して陣を張ったんでしょうね。 |
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元亀元年(1570年)、織田氏と対峙した浅井・朝倉氏の連合軍が立て籠もった城とされます。また、元亀三年(1572年)に明智光秀が坂本城を築城後に支城として明智秀満(三宅弥平次)が入ったともされますが、こちらは定かではないようです。元亀元年九月、壷笠山などに陣した浅井・朝倉軍は坂本で宇佐山城守将の森可成を討ち取りました。元亀元年十二月には浅井朝倉軍は陣払いしています。 |
城跡の道、ポイント箇所 |
近くの城・関連の城:神輿山・白鳥砦 比叡山延暦寺城郭遺構 宇佐山城