近江 | 隠岐城 |
ファイルNo0835 |
@ おきじょう |
道案内 | |||
国道1号線で湖南市(旧甲西町)方面から来ると、西名阪という信号の50m先の信号で右折し甲賀水口中心部に入ります。県道549号線を進み右折してから900mで水口新町の信号です。水口岡山城の麓を過ぎた新町より1Km先の信号が国道307号線と交差する山川橋の信号です。山川橋の信号から1.7Km先の信号で右折し、県道126号線に入ります。700m先は二股道で県道126号線は右手です(左手は県道528号線です)。1.8Km先の信号で(左角が佐山小学校)右折し、県道127号線に入ります。1.8Km先の右手の丘の上に大岡寺があります。 |
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訪城備忘録 | |||
今は寺の敷地になっており明確な遺構は無いようです。 |
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佐々木秀義の五男の佐々木五郎義清が築いたとされます。 義清は秀義が関東(現綾瀬市)に逃れていたときに渋谷氏の娘との間にできた子で上の4人とは母親違いです。 <佐々木氏> 平安末期、平治の乱で破れ関東に落ち伸びていた佐々木秀義は、源頼朝の挙兵に従い平家との戦いに活躍しました。佐々木氏はその功績により近江に復帰しました。佐々木惣領家は秀義の嫡男定綱に引き継がれ、定綱の後は嫡男広綱が継ぎますが、承久の乱<承久三年(1221年)>で宮側に付いた広綱は斬首され、惣領家は三男の信綱が継ぎます。仁治三年(1242年)に信綱がなくなると、近江は四人の息子たちに分割されました。長男の重綱は坂田郡大原荘(山東町)の地頭職を得て大原氏を名乗り、次男高信は高島郡田中郷(安曇川町)・朽木荘(朽木村)の地頭となって高島氏を名乗りました。三男泰綱が宗家を継いで近江南六郡(神崎、蒲生、野洲、栗太、甲賀、滋賀)を与えられて六角氏を名乗り、四男氏信は近江北六郡(高島、伊香、浅井、坂田、犬上、愛智)を与えられて京極氏を名乗りました。 |
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