美濃/ | 美濃・金山城 |
ファイルNo0925 |
@ かなやまじょう |
道案内 | |||
東海環状高速道の可児御嵩インタを下り、国道21号バイパスを右折し次の柿田の信号右折し県道381号線に入ります。1.4Km先の高倉口の信号で右折し国道21号線旧道に入ります。150m先の交差点を左折して県道351号に入ります。800m先で県道は右折します。右折より800m先で金山城の案内に従い右折します。右折後すぐ左手に駐車場があり、そこから登山道がありますが、出丸まで車で行けます。登り口手前の道を入り、300mほど先(兼山小学校の裏手のところかな?)で左折し林道を登り、2Kmほどで出丸の駐車場です。 (または、国道21号線の上恵土の信号から県道381号線に入り北上します。2.5Km先の城戸坂で県道351号線に右折します。) 2020年12月、2016年の訪城の際の元写真ファイルを間違えてすべて消してしまったため、撮り直しで再訪城しました。2016年からの変化は本丸西斜面の伐採が進み、石垣が見やすくなったことと大手門枡形下の石段修復でしょうか。 |
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訪城備忘録 | |||
2007年に訪城した際、2001年4月に訪城した時に比べ出丸周囲が整備されているようでした。2015年に再び訪れましたが、あいにくの雨の中の訪城でした。2016年、前年に続き訪城しました。登り口は公園として整備されすぎとも思えますが、逆に主要部はありのままでの保存のように見えます。 出丸は現在駐車場になってますが、周囲の石垣は残ります。一か所石が抜けて裏込め石が見えてました。 三の丸から二の丸、その上に桝形大手門があり、その両側に南腰郭、西腰郭を配します。三の丸から西腰郭を見上げると残存石垣が見え、足元には石垣の石が散乱しています。本丸及び天守周囲の石垣までの郭配置には重量感を感じます。 本丸では、2015年まであった社殿が2016年には無くなっていました。本丸北側の残存石垣を見ると往時は3mほどの石垣があったようです。本丸東側には枡形埋め門虎口と東腰郭と二段の郭があります。、ここの石垣は天面や隅が著しく崩壊し、地面に石垣の石が多数あります。これは破城の明瞭な痕跡と言えます。 さらに、東腰郭下の南側に伝左近屋敷がありますが、ここは北側のみに石垣があり、これも破城の痕跡が見られます。北側麓には石垣作りの伝米蔵という郭もあります。 江戸時代、尾張藩の留山となり、立ち入り禁止であったため、破城した直後の姿がすのまま保存され今に至っていると思われます。出丸の石垣、中心部の大手桝形門石垣、本丸の天守袖櫓の石垣、二の丸土塁あるいは本丸北側下の石垣など見るべきところ多い城跡です。 犬山城の天守は金山城天守を移築したという伝承がありましたが、現在は否定されています。しかし、金山城の資材は木曽川で筏にして運ばれ(金山越え)て、犬山城の改修資材に使われていますし、犬山城の天守平面の形、大きさと金山城の本丸天守の位置の形状が似ていると言われ、まだこれの決着はついていないのかもしれません。 |
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斉藤道三の猶子の斉藤正義が天文六年(1537年)に築城し烏峰城(うほうじょう・別名、烏ヶ峰城=からすがみねじょう)としました。しかし、天文十七年(1548年)に久々利城主の土岐三河守によって、久々利館で謀殺され、城には土岐十郎左衛門が守将として在城しました。永禄八年(1565年)に織田信長の東濃計略によりこの城を落とした森三左衛門尉可成にこの城を与え、可成は烏峰城を金山城と改めました。可成が近江宇佐山城で元亀元年(1570年)に討死すると可成の嫡子の長可が継ぎ、長可が天正十年(1582年)に信州川中島に転封になると弟の蘭丸が城主となります。同年の本能寺の変で蘭丸が討死後、長可が川中島から戻ります。天正十二年(1584年)の小牧・長久手の戦いで長可も討死すると忠政が継ぎました。忠政は慶長五年(1600年)に徳川家康の命により長可も居城した信州海津城に国替えとなり、その後、18万6,500石の美作津山城主となりました。森氏親子四代が35年間在城したことになります。忠政の国替えにより、金山城は犬山城主・石川備前守光吉に与えられ、さらに慶長六年(1601年)には犬山城主小笠原吉次によって金山城は破却され、天守・櫓・城門などすべて解体され、古材は筏に組んで木曽川を下り、犬山城に移築したとされます。(これを金山越しといいます) 天守の金山城から犬山城への移築はどうやら違うようです。 |
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出丸〜三の丸まで |
本丸西斜面石垣 |
本丸枡形 |
本丸・本丸西側 |
本丸埋め門・本丸東石垣 |
左近屋敷 |