信濃/ 松代城



ファイルNo0403

上杉・武田攻防の川中島の戦いの海津城・江戸期真田氏10万石の居城

                 天守台(戌亥櫓)石垣   

@ まつしろじょう 
  別名 海津城
A住所:長野市松代町松代 
B目標地点:松代城跡公園
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:公園・宅地

F遺構等:石垣・堀・土塁・復元門・復元櫓・説明板
G時代/人物:戦国期〜江戸期/
         武田氏〜真田氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分

J撮影・訪問時期:2002年01月・2006年04月
            2021年12月

  
復元中の太鼓門 2002年

【道案内】  

上信越高速道長野インタを下り、県道35号線へ左折し500m先で国道403号線と合流し南へ進みます。高速下の合流点の上高相の信号から500mの荒神町の信号で右折し長野電鉄を越えて海津城址公園に入るか、荒神町の信号からさらに国道403号線を進み800m先で右折し500m先の紺屋町の信号で右折し真田邸側から入るかになります。



【訪城備忘録】

2002年、私が訪れた時はまだ復元工事中でした。石垣もきちんと番号を振り、忠実に積み直しをされたようです。この大規模な復元工事は2004年4月に完成したとの事です。現在残る松代城(海津城)は本丸と二の丸であり三の丸は一部堀が残る程度です。天守の代わりの戌亥櫓石垣は野面積みであり、江戸期以前に構築されたもののようです。街中には新御殿、藩校、武家屋敷などが残り、町全体が城下町の雰囲気を今も色濃く残しています。

2006年4月に再訪しました。復元された本丸は凛とした感じでした。
2021年12月に15年ぶり再訪しました。旧松代駅(長野電鉄 廃線)と本丸の間が発掘調査されており、南門や御御門周辺の復元は将来にあるのでしょうかね?

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【歴史】

築城時期は不明です。甲陽軍鑑によれば信玄の命により天文二十二年(1553年)に清野氏の館に山本勘助が縄張りをして海津城を築城したとありますが、確証はないようです。史料からすると永禄三年(1560年)頃の築城とするのが妥当性があるようです。永禄四年(1561年)は高坂弾正忠昌信<本来は香坂と書くべきだそうです>が城主で第四次川中島の戦いの年です。天正十年(1582年)に武田氏が滅びた後、織田氏方森長可が入城しますが、同年の本能寺の変以後は上杉景勝が支配します。豊臣秀吉政権下ではこの地は秀吉の蔵入地でした。慶長五年(1600年)に徳川家康は森忠政に川中島四郡十三万七千石を与えました。慶長八年(1609年)には徳川家康の六男の松平忠輝の所領となり海津城は城代として花井吉成が置かれました。元和三年(1617年)に松平忠輝は改易となり、その後は松平忠昌・酒井忠勝の城主を経て、元和八年(1622年)に真田信之が入封し、この城を松代城と改称しました。以後、真田氏は松代十万石として明治維新まで続きました。

  
復元中の内堀 2002年
  
城址碑
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本丸南側(太鼓門)
二の丸北側から(手前・本丸北不明門)
現地案内板より
  

近くの城・関連の城: 上田城 

          

現地案内板より
 本丸南側(太鼓門・内堀に架かる橋) 
太鼓門橋詰門   枡形内石垣
太鼓門       太鼓門横石垣
太鼓門
太鼓門(本丸内より)
天守台(戌亥櫓)石垣
本丸
本丸東側石垣
東不明門と前橋
北不明門
二の丸北側から
二の丸北側全景
埋め門 外側から
二の丸北側から
本丸東側石垣と内堀
二の丸東側
本丸東側石垣と内堀
石場門
本丸太鼓丸側
埋め門を内側から
天守台(戌亥櫓)石垣を西側から 石垣で古い虎口を塞いでる?)
本丸石垣
本丸内堀南側
本丸遠景
真田邸(新御殿)玄関
武家屋敷表門  白井家移築
追加写真(武家屋敷など)