信濃/ | 上田城 |
ファイルNo0396 |
現存の三基の櫓、本丸の堀は重量感があります。
@ うえだじょう |
道案内 ←尼ケ淵駐車場 | ||||
国道18号線旧道としなの鉄道・長野新幹線に挟まれた地域、上田駅より北西へ800mほどのところです。国道18号線旧道中央1丁目の信号で上田駅側から来ると左折してすぐです。 上信越自動車道の上田菅平インタから国道144号線に入ります。2.8km先、中央東の信号で右折し国道18号線に入ります。2km先、上田城跡公園入口の信号で左折します。 1km先が大手1.2丁目の信号で右手が城跡です。車はさらに600m先、天神2丁目の信号を右折し、800m先くらいが駐車場です。 |
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訪城備忘録 | ||||
現存3つの櫓(西櫓・南櫓・北櫓)、本丸の三方に残る水堀、尼ケ淵の石垣、本丸東西両虎口の石垣など見応え有る城です。真田氏で有名な城ではありますが、真田氏が松代に移ってからいったん徹底的に破城された城で、現在の城は仙石氏時代に再築になるものです。ただ、本丸周囲については真田氏時代の原型が残っていると言われます。 明治維新以降に城内に残っていた建物は西櫓だけで、現在の北櫓、南櫓は、民間に払い下げられた6棟(本丸には7棟の櫓があった)の櫓の内の2棟を買い戻して現在の位置に移築復元されたものです。東虎口櫓門は平成六年(1994年)に復元されました。 さらに、東側約500mのところの現上田高校は上田藩主居館であった場所で、表門と土塀、堀の一部が現存してます。 現在の城跡は、本丸の南を除く三方を囲む水堀、その外側に二の丸が取り囲み、二の丸東側には虎口石垣と空堀が残り、二の丸北側には石垣で桝形となっている二の丸北虎口が残り、西の小泉郭との間に空堀が残ります。二の丸北虎口の下には今は陸上競技場になってますが、二の丸百阮xの跡で、土橋の跡の石垣に大きな石組の樋がある石垣が残ります。 本丸は南側が有名な尼ケ淵の崖になっていて、現在は駐車場になってます。尼ケ淵沿いにも石垣が残っています。本丸東側には現存(修復移築)の北櫓と南櫓があり、その間に東虎口櫓門が復元されています。本丸中心部には南を除いて周囲を土塁が巡ります。本丸西側には西虎口の石垣・礎石が残ります。また、ここには西櫓が建っていて、江戸期から同じ場所に建っている現存櫓です。本丸の三方を巡る水堀で北東側土塁は角を欠けたようになっていて鬼門除けと言われています。西櫓から尼ケ淵に下りると崖の上に建つ西櫓、南櫓が印象的です。2021年に夜景の時間に行ったのですが昼間とはまた違った趣でした。 2023年、北陸新幹線で長野駅方面から来ると上田駅直前で左手に上田城が見えます。新幹線から始めて写真を撮ってみました。(笑) 翌日朝に朝の散歩がてらに城跡公園内を歩いて見ました。6時前からでしたが、朝の散歩をされている方が結構おいででした。 そういえば伊予松山城で朝登った時もそんな感じでした。 |
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真田昌幸によって天正十一年(1583年)より築城を開始し天正十三年(1585年)に完成したものです。天正十三年と慶長五年(1600年)の2回にわたる徳川氏との合戦に耐えました。関が原の合戦後、昌幸と信繁(幸村)は和歌山県九度山に流罪とされ、代わって嫡男の真田信之が入封、元和八年(1622年)、信之は松代に転封になり、上田城は徳川氏の手によって徹底的に破壊されました。寛永三年(1626年)、仙石忠政が信州小諸から入封し、寛永三年〜五年(1626〜28年)にかけて現在見る城に再築されました。仙石氏は本丸に七つの二階隅櫓と二つの櫓門を建てましたが、忠政病死で城の作事は未完に終わりました。宝永三年(1706年)に三代、仙石政明が但馬出石に転封となり、入れ替わりで、但馬出石より(藤井松平氏)松平忠周が五万八千石で入り、松平氏が明治維新まで続きました。三つの現存櫓(西櫓・南櫓・北櫓)で西櫓は寛永当初からのものですが、他の二つは明治時代に民間に払い下げされ市内にあったものを修復し現在の地に再移築されたものです。 <現地案内板を補則 上田教育委員会> |
尼ケ淵 |
本 丸 |
二の丸東虎口 |
本丸西虎口 |
夜景(尼ケ淵) |
二の丸北虎口 |
上田藩主居館 3783 |
@ うえだはんしゅきょかん 別名 A住所:上田市大手1−4 B目標地点:上田高校 C形式:平山城 D比高:20m E現況:高校 F遺構等:現存門・堀・土塀・石碑・説明板 G時代/人物:江戸期/真田氏 H満足度: 凸凸 I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間: 尼ケ淵側の有料駐車場より20分 J撮影・訪問時期:2021年12月 |
上田城の大手1.2丁目の信号から東へ約300m、上田市役所を越えて市役所前の信号を右折し、約100m先で左折してさらに右折した先が上田藩主居館の城門の所です。 往時は四方を水堀で囲まれていたようですが、現在は、城門とその面の水堀、土塀が残ります。 関ケ原の戦い後に上田城に入封した真田信之は居館としてここを築き、その後の、仙石氏、松平氏も居館として使用したようです。表門は焼失したものを寛政元年(1789年)に再建されたものです。 |