尾張/ 犬山城



ファイルNo0634

現存天守国宝5城のひとつ、古風な望楼型天守が残る

      現存天守

 いぬやまじょう 
  別名 白帝城 

A住所:犬山市犬山北古券
B目標地点:
C形式:平山城  D比高:60m 
E現況:公園・宅地

F遺構等:現存天守・石垣・碑・説明板
G時代/人物: 戦国期/織田氏
H満足度: 凸凸△
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  駐車場より10分

J撮影・訪問時期:2003年07月・2005年4月
・2014年10月・2023年09月
 (2020年12月) 他


  

道案内 ←犬山城駐車場

名神高速道の小牧インタから来ると国道41号線で犬山方面に進み、犬山市に入るとすぐ陸橋となり、その側道に入ります。陸橋下の五郎丸の信号を左折します。県道27号線を進み、犬山市役所前・名鉄犬山駅前を通過し、左折してから2.2Km先の薮下の信号を左折し、郷瀬川沿いに500mほど進んでところを左折し坂を登ります。300m先の犬山体育館前の駐車場を利用します。
 
訪城備忘録

何度も訪れていますが、廻りが宅地・都市化されたところに現存天守が取り残されたように建っているという印象をいつも持ちます。ただ、山上に孤高の天守は特に木曾川対岸より見る天守は美しいですね。 でも、近くまで行くと天守以外は大手道に残る石垣と本丸部及び天守、本丸西側下の堀があるだけ・・・という感じ・・・。縄張りと言う点では本丸周辺以外は消滅していると言わざるをえません。

しかしながら、天守は奇跡的に残っている貴重な建造物です。それも、天守は望楼型の古い形式のものです。 三層四階の天守で最上階のみ真壁造<白木の柱や長押が見えている構造>で、窓が無いのに華頭窓が四つ飾りとして付いていて、廻縁の軒裏は白木がむき出しになってます。(一層二層の軒裏は漆喰塗籠) 廻縁を歩ける現存天守は高知城と犬山城だけだそうです。天守のみのような印象がありますが、天守一つでもいろいろ勉強になりますね。 周囲からいろんな角度で天守を眺めてみるのもいいですね。

なお、一宮市千秋町穂積塚本 浄蓮寺に松の丸の門が移築されているそうです。
歴史

天文六年(1537年)に織田信康が築き、木ノ下城より移ります。天文十六年(1547年)に信康が斎藤道三に破れ討ち死に後、子の信清が継ぎ、信清が織田信長によって追放後城主は元亀元年(1570年)池田勝三郎信輝、天正九年(1581年)織田信房、天正十年(1582年)織田信雄の家臣中川定成と城主が代わります。文禄四年(1595年)美濃金山城主の石川光吉が城主となり、この頃に城は大改修されました。関が原の戦い以後、清洲城主松平忠吉の家老の小笠原吉次が犬山城に入り天守はこの頃3.4階を増築したようです。慶長十二年(1607年)に徳川家康は尾張名古屋城主として九男の義直を入れ、その付け家老として当初は時代は平岩主計頭親吉を、元和四年(1618年)には成瀬正成を犬山城の城主としました。天守三階の唐波風はこの頃改修されたとの事です。成瀬氏はその後明治まで続きます。江戸期は尾張藩家老であり藩ではありませんでしたが、明治維新後に藩として認められますが明治五年の廃藩置県で廃城になりました。長らく成瀬氏の個人所有の城でしたが、平成になって管理が移りました。

本丸鉄砲櫓下大手道石垣     杉の丸側大手道石垣
大手道(岩坂)
日没前の犬山城天守(木曽川対岸から)
天守から木曽川と伊木山城
木曽川から桜の時期の天守
  
中核部下の空堀
空堀と樅<もみ>の丸側石垣
黒門そば桐の丸石垣      樅の丸石垣
岩坂門そば杉の丸石垣
鉄砲櫓石垣
鉄砲櫓石垣
鉄砲櫓鉄門横石垣
天守
天守付櫓と石垣
天守二層の軒唐破風,と最上階屋根は入母屋破風
以前の七曲門
2023年時点の七曲門
天守内 
穴蔵石垣
桃瓦(右端)
上段の間
天守最上階白木のままの軒裏と真壁造      窓のない華頭窓        
天守最上階廻縁から木曽川と伊木山(城)
天守最上階廻縁から木曽川
いろいろな角度から天守を見る
本丸内から
天守東側下 水の手櫓跡・丑寅櫓跡方面から
松の丸西側(現駐車場近くから)
木曽川のライン大橋から
木曽川のライン大橋から
木曽川対岸から
木曽川対岸から
木曽川対岸からの薄暮の天守
木曽川対岸からの薄暮の天守
木曽川対岸からの薄暮の天守
木曽川対岸からの薄暮の天守
木曽川対岸からの薄暮の天守
木曽川対岸からほぼ正面に見る
  
小島家
宮田家

近くの城・関連の城:木ノ下城