富山の城003/

                                                                               

魚津城  0048
城址碑
A魚津市本町 
B旧:大町小学校  C平城

富山市方面より国道8号線で来ると、友道東の信号を左折し県道332号線に入ります。(あるいは北陸高速魚津インタを下り、県道52号線を魚津市内に向かい本江東の信号を左折し友道東の信号を右折します。)県道135号線(旧8号線)の友道の信号を過ぎ、電鉄魚津駅を過ぎ、新宿の信号で左折し200mほどの右側が旧大町小学校です。この周辺は一方通行や細い道が多いので注意下さい。旧大町小学校のグランド隅に謙信の歌碑、校舎西側に魚津城址の石碑があるのみです。大町小学校は2018年4月に廃校になりました。

F遺構等:碑  
G南北期〜/椎名氏  
H満足度:凸

南北朝期、松倉城に椎名孫八が領したの頃、松倉城の支城として築かれたと考えられます。永正年間に越後の長尾為景に包囲され城主鈴木国重が討たれました。天文二十年(1551年)には上杉謙信の進攻で落城し椎名氏は上杉氏に従います。永禄十一年(1568年)椎名康胤は武田氏に寝返り上杉氏より離反します。上杉謙信は松倉城を攻め椎名康胤を追放され上杉方の城となり河田氏の支配下となります。天正十年(1582年)三月、魚津城は柴田勝家、佐々成政ら北陸遠征軍の攻囲を受け上杉景勝自身も越中に出陣しましたが、信濃口から森長可、上野からは滝川一益が越後へ向けて侵入するという情報を得てやむなく春日山に兵を返したため、孤立した魚津城は兵糧も尽き織田方の開城勧告を六月三日に受諾しましたが、織田軍の騙し討ちにあって多くの武将が討死しました。これは本能寺の変(六月二日の未明)の情報が届く前日のことであったと伝えられます。織田軍は魚津城より引き上げ城は須田満親率いる上杉軍が回復しました。その後に、天正十三年(1585年)には佐々成政の支配に、天正十五年(1587年)からは利家嫡男前田利長が支配し松倉城に代わって新川郡の中心となり青山佐渡守吉次が城代となります。元和元年(1615年)の一国一城令によって廃城となりました。 <資料より>

J訪城:2004/08
上梅沢館  0052
上梅沢館の土塁
A滑川市上梅沢 
B光明寺  C平城

富山市水橋方面より国道8号線(新道)で来ると上梅沢の信号を右折して600m先の田園の中にある光明寺が城跡です。寺の西側の土塁が館城の名残を留めています。

北陸自動車道滑川インタからだと、県道51号線で国道8号線へ向かいます。2.2km先、稲泉の信号(高架)で左折し、国道8号線に入ります。2.1km先が上梅沢の信号です。

F遺構等:碑  
G南北期〜/土肥氏  
H満足度;凸+:

堀江城弓庄城などを拠点とした土肥氏の一族か家臣が居住した館と考えられます。

J訪城:2004/08
郷田砦  0071
郷田砦・城山
A中新川郡上市町柿沢 
B城山の湧き水  C山城

北陸自動車道立山インタを下り、県道3号線で上市市内を通って湯神子温泉前を通り、県道152号線で大岩山日岩寺に向かう途中の城山の湧き水のところの背後の山が城址です。(あるいはインタを下り県道3号線を南下し江崎の信号で県道167号線に入り、そのままスーパー農道に入り柿沢の信号の次の信号で右折し県道152号線に入り800m先が城山の湧き水です。) 夏場に行ったため草木が多すぎて途中まで登って戻って来てしまいました。主郭の北と南に土塁が巡り尾根続きの南側に深い堀切があるようです。

F遺構等:堀  G戦国期/土肥氏  
H満足度;凸+

土肥氏が弓庄城の出城として築き、天正十一年(1583年)に佐々成政が弓庄城を攻めた際の向城として利用されたものと考えられます。前田氏が越中を支配してから、利家の家臣青山佐渡守が城生城から魚津城の城代に移る時、城生城よりここに最初移り、一冬を居住して後魚津城に移ったと言う記録があるそうです <資料より>

J訪城:2002/08