越中 / | 弓庄城 |
ファイルNo0074 |
豪族 土肥氏の本城
@ ゆみのしょうじょう |
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【道案内】 上市市街地から県道152号線で南下し、柿沢の信号で右折し700m先に女川という信号があり(県道157号と158号に交差の交差点の400m手前)、それを左折します。400m先で斜め左に入り、700m先で右折した先が城跡です。(行きすぎでしまったら県道158号へ左折して下さい。800m先で左折した先が城跡です。右手が白岩川、左手台地の上に城跡があります。) 道の左手が城跡公園があり、右手(西側)の田園の中が本丸で石碑が建ちます。 【訪城備忘録】 城跡周辺は耕地整理がされており城跡の感じのしない一面田園という感じです。その中に城跡公園と田んぼの中に本丸を示す城址碑が建っています。ただ、耕地整理はされているとは言え説明板には本丸周辺には切岸・堀跡の地形が残っていると書かれていますが、そう言われれば田んぼの段差がそんな風にも見えますが、確信はもてません。 資料館には弓庄城のジオラマがあり、出土した遺物が展示されてます。 【歴史】 土肥氏は相模国土肥郷を本領とした土肥次郎実平を祖とする一族で、実平から五代目の実綱が越中堀江(滑川市)に入国したのが正平年間(南北朝期)と考えられます。その後、四代の土肥政道が居城を弓庄城に移し、以後、政忠・政繁の三代の居城となりました。城は南から北(南北600m・東西150mの規模)へ郭を連ねる連郭式の城であったとされます。本丸は二重の堀が巡り、本丸の規模は南北二十五間(約45m)とされます。 <現地案内板より 上市町教育委員会> 政繁は上杉氏に属していましたが、謙信の死と織田氏の越中侵攻に伴い、織田氏に属しました。しかし、天正十年(1582年)の本能寺の変で織田信長が討たれると、再び上杉氏に通じたため、越中統一を進める佐々成政は弓庄城を攻撃、天正十一年(1583年)に政繁は城を明け渡し、越後に落ち延びたとされます。 <資料より> |
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