若狭 | 膳部山城 |
ファイルNo3977 |
@ ぜんべやまじょう |
道案内 ←城跡 ←登り口 | ||
舞鶴若狭自動車道の若狭上中インタを下り、料金所を超えて右折し県道22号線に入ります。約6km先、脇袋北の信号で、国道27号線との交差点です。そのまま直進し約500m先で瓜生小南の信号で直進し県道218号線に入ります。約700m先で左折し脇袋集落に入ります。約500m先右手奥が勝手神社で、さらに約200m先の右手に小さな橋があり、膳部山の登城道口(標識有)があります。ここから入り少し行くとゲートのあるフェンスに至り、「膳部山→」の標識があります。ここのゲートは入らず右手に歩いていきます。少し先のゲートを入り、谷筋を登っていくとまた「膳部山」の標識があり、ここから右手に登ります。つづらの道(昔から膳部山へ行く道としては元々あった感じです。)を登っていきます。尾根鞍部まで登りきるとまた標識があり、左手へ斜面登っていくと城跡です。(最後の標識のところから右手へ尾根を進むと瓜生上砦に至ります。) 車では、集落内は道が狭いので、県道218号線付近で停めるか、勝手神社近くに公民館があります。 |
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訪城備忘録 | ||
2023年段階で、標識や説明板や一部でロープの設置がされ、出郭での木々の伐採など城跡として整備された感じです。尾根までのつづら道は膳部山への道として前からあった感じです。塹壕のようなつづら道を登っていきます。堀底は落ち葉が溜まって歩きにくいので土塁の上を歩いて登っていきます。尾根まで到達し、鞍部の切通のような箇所を標識に従って左手に登ります。(右手の尾根に登ると瓜生上砦に至ります。) 斜面を登って行くと、斜面途中に最初の堀切があります。浅くなってますが、幅のある堀切です。さらに登ると出郭でしょう、主要部から少し離れた場所のピークにある郭に至ります。北郭は展望台として整備され、木々の伐採もされ、眺望もいいです。また、膳部山の説明板があります。ここの東側尾根に下りていくと片堀切があります。(昔はちゃんとあったものが山道として潰されたんかな?) この先の尾根は細尾根が続いていました。 北郭を過ぎて北尾根の斜面を登ります。すぐに左側に片堀切状の地形になってます。その上はまるで登り土塁のように斜面に沿って土塁状があります。それにしても幅のある尾根です。斜面を登っていくと主郭です。主郭には碑と説明板があります。この城では一番広い郭です。 さらに北尾根を進みます。この尾根も幅があるなぁという印象です。尾根端には砲台上の北郭があります。北郭の北東尾根側には小段郭群が続き、明瞭な堀切が一条とさらに先に小さめの堀切があります。北郭の南西尾根側は北郭から斜面を下りていくとこちらにも明瞭な堀切があります。さらにその先へ尾根を進むとちょっと不明瞭で小さい二重堀切がありました。 現地説明板に付いている縄張図は古い本からの転用のようで正確さにやや欠ける感じもします。この城、整備されたという情報があるまで知らなかった城でした。山上は思った以上に尾根の幅があり、主郭と北郭の間の尾根も大きな郭という感じもします。後世の改変も入っているのかもしれませんが、堀切は見応えのある城跡でした。2023年10月は天候がやや悪かったので、11月にまた行ってしまいました。(笑) |
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歴史 | ||
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城主は松宮玄蕃清長と伝わるようです。松宮玄蕃は若狭武田氏の家臣で武田義統に仕えたとされます。松宮玄蕃は永禄十二年(1569年)、自らに従っていた熊川城の沼田氏を攻めて熊川城を奪いました。その後、元亀元年(1570年)までには織田信長に従っていて、同年の朝倉氏攻めに熊川城が信長の宿所とされた事が信長公記に書かれているようです。天正元年(1573年)の朝倉氏攻めにも参陣しているようです。天正十年(1582年)の本能寺の変後、明智光秀に味方した武田元明に従ったようで、山崎の合戦以降に没落したようです。<現地案内板より> |