近江の城021  

                                                                               

馬淵城  1881
馬淵町字城屋敷遠望

八幡神社(重要文化財)

岩倉町の石工案内
A近江八幡市馬淵町
B八幡神社・円願寺

名神高速竜王インタを下り、国道477号線を北に向かいます。西横関の信号で右折し国道8号線に入ります。600m先日野川を越えた東川の信号を越え、700先の馬淵町中の信号で左折し、500m先の田んぼの中の十字路で右折、250m先で斜め右へ入ったところが「城屋敷」という地名を持つ一帯です。馬淵町のはずれになります。なにか痕跡があるかなと思って馬淵町内を見ましたが遺構はないようです。集落の北東側にある真光寺に馬淵氏の墓があるらしいです。

C平城
F遺構等:なし
G鎌倉期/佐々木(馬淵)氏 
H満足度:凸

源氏の鎌倉幕府に貢献のあった佐々木季義が近江の守護となり、定綱ー広綱と続きます。広綱の五男広定が馬淵に住し馬淵氏を名乗りました。総領家は広綱が失脚したため、定綱の三男の信綱が継ぎます。馬淵氏は佐々木六角氏に従いますが、内紛等で何度か落城したようです。永禄十一年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛する際、織田軍に攻められて落城し廃城になったようです。ところで、安土城の石垣より石垣積みは穴太積み・穴太衆というのは有名ですが、この馬淵も近くの岩倉とともに、石工が居て、馬淵衆、岩倉衆として築城の際の石垣積みに活躍しています。

J訪城:2008/05
  
谷氏館(友定城・谷殿屋敷)  1882
谷殿屋敷標識

武佐宿脇本陣跡
A近江八幡市武佐町
B武佐公民館・八幡神社

名神高速竜王インタを下り、国道477号線を北に向かいます。西横関の信号で右折し国道8号線に入ります。600m先日野川を越えた東川の信号を越え、3Km先六枚橋の信号を越え、1.5km先の友定町の信号で右折し国道421号線に入ります。100m先の友定町東の信号を左折し、八幡神社と武佐公民館の間の道を300mほど進んだ右手角の民家の前に屋敷址の標識があります。武佐脇本陣には友定町東の信号からさらに250m進んだ武佐町の信号を左折し200mほど行った左手、武佐町会館が脇本陣です。中仙道武佐宿の北側が城屋敷という字で、住宅の中に「谷殿屋敷址」の標識があり、脇本陣には武佐町会館の説明文中に館についての記述があります。

C平城
F遺構等:類似説明板・城跡標識
G室町期/谷氏 
H満足度:凸

佐々木六角氏が延徳三年(1491年)小脇館(東近江市)より金剛寺城に移転した際、家臣の谷氏(分家)がここに屋敷を構えたものです。

J訪城:2008/05
   
小田城(高畠氏館)  1884 
字「たかばたけ」

小田神社楼門(重要文化財)
A近江八幡市小田町
B小田神社・小田公民館・光栄寺

名神高速竜王インタを下り、国道477号線を北に向かいます。西横関の信号で右折し国道8号線に入ります。600m先日野川を越えた東川の信号で左折し県道326号線に入ります。4Km先の小船木町の信号で左折し県道2号線(通称:朝鮮人街道)に入ります。約4.3Km先の十王町の信号で右折します。800m先左手が小田神社、右手が小田公民館のところで駐車し、小田公民館側に逆Vに曲がり、すぐを左折し、100mほど行った右手前方が城址です。集落の真ん中にL字の水田があります。この辺が「たかはたけ」という地名になるようです。集落の少し小高い感じのところが屋敷址との事で、左の写真の水田の向側くらいがそれで、この水田は掘跡の名残であるかも。屋敷跡には「おなべの松」と「おなべ塚」があったようですが、松は枯れたそうです。小田神社の楼門は織田信長が気に入り安土城に移転させようとしたそうです。

C平城
F遺構等:なし・(おなべ塚) 
G期/氏 
H満足度:凸

六角氏の家臣高畠源兵衛の館とされ、織田信長の側室のお鍋の方の出生地とされます。なお、東近江市永源寺町高野にお鍋屋敷との言い伝えがある高野館があります。

J訪城:2008/05