加賀/ | 岩倉城 |
ファイルNo1165 |
一向一揆の城ながら角馬出もあり、織豊系のような技巧を感じる城跡
@ いわくらじょう |
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【道案内】 ←登城口 北陸高速道小松インタを下り、右折し県道25号線に出て、1.6Km先の城南町西の信号で左折します。県道20号線を進み、さらに京町の信号を直進し県道4号線を進みます。城南町西の信号から2.5Km先の(JR北陸線を越えます。)園町の信号で右折し旧国道8号線に入ります。700m先の沖町の信号で左折し国道360号線に入ります。3Km先で国道8号線バイパスの高架を越え、さらに国道360号線を5Km進み、原町町内の仏御前屋敷跡を過ぎ、さらに国道を4km進んだ上麦口会館(公民館)の100m先左の路地が登城口、右に城跡案内板があります。 【訪城備忘録】 麓まで行くのですが、時間や天候でなかなか訪城できない城跡でした。今回、城仲間数人に同行いただきやっと登れたという感じです。^^V 登城口から案内板・碑に従って登ります。途中、林道の分岐やサムライ道の石碑(これを右手に行くと麓におります。昔の大手道?)などがあってややまどいますが、基本、まっすぐに山頂に向かって登ります。ほぼ山頂に近付いたところで大きな平坦地があります。片側に土塁も伴う郭で、兵站地だろうか?山頂が近くなると岩倉城が左、岩倉観音が右の石碑に至ります。左手に進むと、両サイドが土塁になるまさに城道(塹壕)です。主郭下に至りと左側から土塁が飛び出しておて、かざし土塁と言うらしいです。城道は大きく左カーブをしながら主郭虎口前の虎口郭に至り、右手に手に曲が主郭虎口です。主郭へは平虎口ですが、この一連の構造で二重桝形という事のようです。 主郭は大変広く周囲を土塁が巡り、一部折れのある箇所もあります。主郭には手書きの素敵な縄張り図が設置してあります。地元の方が書かれたんでしょうけど、なんて素敵な^^V そこからは下の角馬出しに横矢になってました。主郭への虎口は、大手で入ってきた西側、岩倉観音側の南虎口、防御が複雑な北虎口(搦め手)の三か所でどれも明瞭です。搦め手側から主郭を出ると角馬出しです。一向一揆の城で角馬出し?というくらい明瞭な形です。主郭の搦め手虎口のすぐ先に左に降りる桝形虎口があり、下の郭も出撃郭のようです。この角馬出しと下の出撃郭で重ね馬出しになるんかな。出撃郭の虎口を出ると左手側は出撃郭に沿って空堀があります。右手は藪になってますが、角馬出しの下の腰郭があります。この角馬出しから出撃郭までの構図は玄蕃尾城を見てるみたいな技巧的な構造です。主郭に戻って反対側の虎口を降りて行くと岩倉観音の郭です。その上には出丸と推定される平坦地があります。石川県の金沢から加賀までには堅田城、松山城など一向衆の城ながら技巧的な城が存在します。ただ、必ずしも構造は統一は無いですが、いずれにしても、一向衆の中に、築城の知識豊富な武士が混じっていたという事なんでしょうかね?ただ、この後鳥越城攻撃のための基地として改修された可能性が強く、そうであれば織豊系の縄張り、兵站基地のような広い郭の存在は納得ができる感じはします。 また、岩倉城の登城口は上麦口町にありますが、手前の岩淵町には岩淵城、原町には仏ケ原城という一向一揆の城跡があります。どちらも織豊系に改修されたような縄張りです。(兵站基地であるよう) さらに、城には関係ないですが、原町には仏御前(平清盛の側室)の屋敷跡があります。 【歴史】 築城時期・築城者は不明です。享禄四年(1531年)に一向一揆を攻めた朝倉教景勢が拠ったとされ、天正三年(1575年)に一向一揆勢が在城したところを織田信長勢に攻撃を受け、落城しました。この後、鳥越城攻撃のための基地として改修された可能性が大です。 |
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