美濃/ | 西高木陣屋 附:東高木陣屋 |
ファイルNo0905 |
@ にしたかぎじんや |
道案内 | |||
名神高速道関ヶ原インタを下り、国道365号を上石津方面に進みます。2.4Km先の牧野上野の信号で国道は右折となります。国道を道なりに進むと信号より4Km先で上石津のトンネルを3つ越えます。トンネルを出てすぐの信号が下多良の信号で、ここより1.4Km先の上原の信号で右折します。300m先で牧田川を越えると道は右手に段丘の上へ登ります。神社の前を過ぎて少し行くと左手に郷土資料館へ登る道があります。 |
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訪城備忘録 | |||
郷土資料館に向かう坂道にりっぱな石垣が残ります。斜面に沿って石垣が続いていて登り石垣のように見えます。この郷土資料館横周辺の高台が西家で西家の長屋門も現存します。また、西家と道路を挟んだ反対側には東家の土蔵と石垣の残ります。北家についてはよくわかりませんでしたが、東家の北側に屋敷があったようです。 この地区に明智光秀生誕の地という伝承があるようです。 |
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高木氏は清和源氏の源頼親を祖とし大和の高木に住して高木氏を名乗ったとされます。伊勢に移り住み室町中期には駒野に住し斉藤道三その後織田信長に従いました。信長亡き後は織田信雄に従いましたが、秀吉が天下を取り信雄が改易された際、高木貞利は甲斐の加藤光泰の下で蟄居しました。文禄四年(1595年)に貞利は家康に召し出され上総で千石を与えられます。関が原の戦い後、この地を拝領し貞利(西家)は二千三百石、貞友(東家)が千石、貞俊(北家)が千石で入部しました。三家ともに交代寄合美濃衆(旗本)と呼ばれ参勤交代のある旗本として明治まで続きました。 <現地案内板より> |
東高木家陣屋 |