美濃 / 駒野



ファイルNo0472


        主郭土塁

@ こまのじょう 
  別名  −−−−−

A住所:海津市南濃町駒野
    旧:海津郡南濃町

B目標地点:城山小
C形式:丘城  D比高:20m 
E現況:学校・宅地

F遺構等:郭・土塁・説明板
G時代/人物: 戦国期/高木氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  城山小正面玄関から2分

J撮影・訪問時期:2004年04月

  

道案内  

桑名市より国道258号線で来ると、南濃町の駒野の信号の次の信号を左折して、100m先を右折して城山小学校に向かいます。正門前に説明板があり、正面玄関より左手に周り校舎裏手行くと主郭の遺構があります。
 
訪城備忘録
主郭内

正面玄関で先生にお願いして見学許可をいただきましたが、ご親切にも主郭まで案内していただきまいた。校舎の裏手の丘の先端部に小山のように主郭はありました。他の部分が学校などで遺構が消滅しているため何か唐突な感じでこの主郭はありました。40m四方の主郭は分厚い土塁に囲まれ、まるでカルデラの火山のようにすり鉢状の形で残存していました。

虎口部分
歴史

正暦年間(990〜994年)船岡山と言われたこの丘に初めて城を築いたのは瀬戸道明寺と伝えられます。文治・建久年間には美濃守護土岐氏が城を築き守将を置いたと伝えられます。承久年間(1207〜1210年)には伊藤裕朝が入りますが、12代の裕長に至り天文十六年(1547年)に滅亡しました。その後、高木氏が居城し斉藤氏後に織田信長に属しました。貞利の代の天正十二年(1584年)の小牧長久手の戦いで信雄方についたため、秀吉方の筒井順慶に攻められましたが守り抜いたものの、天下は秀吉となったため、貞利は城を開城し一族は離散しました。 関が原の戦いでは西軍が大垣城の支城として改修しますが、関が原の戦い後廃城になりました。 <現地案内板より>

  

近くの城・関連の城: 津屋城 西島城