美濃/ 深戸城



ファイルNo0486

         土塁(櫓台)

@ ふかどじょう 
  別名  −−−−−

A住所:郡上市美並町三戸・梅原
   旧:郡上郡美並村

B目標地点:
C形式:山城  D比高:60m 
E現況:畑地・山林・墓地

F遺構等:郭・土塁・櫓台・堀切・城址標識
G時代/人物: 戦国期/餌取氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  墓地より5分

J撮影・訪問時期:2004年09月

  

道案内  

東海北陸高速道美並インタを下り、国道156号線を郡上(八幡)方面に進みます。3Km先の相戸の信号を過ぎ、さらに1.2Km先の深戸のバス停近く(長良川鉄道深戸駅の先)で右手に下りる道へ入ります。すぐ左折し、ここを直進し、山麓のT字で左折し、すぐの集落内で右折し坂道を登ります。登り終わると道は左にカーブします。切り通しの感じのところを越えると左手に深戸城の標識があります。ここからも主郭に行けますが、300m先で田んぼの真ん中で左折し山に登る道があります。ここを左折しますと墓地に入りますのでここの一番奥まで行きます。墓地の駐車場より左手に歩いて行くと主郭です。
 
訪城備忘録
肥壷の穴??

墓地の所、あるいは墓地の西側の斜面も城域とする資料もありますが、明瞭な遺構は判別できません。東側には堀切と思われるところが二箇所と祠がある土塁は櫓台と思われます。


案内標識
歴史

東常慶が篠脇城から東殿山城に本拠地を移した天文十年(1541年)に家臣餌取弾正(えとりだんじょう)も牧谷栗栖(旧大和町)から深戸に移り築城しました。この地区は元々葺山(ふきやま)主福手氏(ふて)の領地であったため、天文十三年(1544年)に福手蔵人は深戸城を急襲し弾正を討ち取りました。弾正の子の六右衛門は難を逃れており、常慶の斡旋で深戸城に復帰しました。その後、遠藤氏に従いますが、遠藤慶隆が天正十六年(1588年)に加茂郡に移封された際、廃城となりました。

  

近くの城・関連の城:郡上八幡城 東殿山城