飛騨 / 松倉城



ファイルNo0429


           三の丸下石垣  

@ まつくらじょう 
  別名  −−−−−

A住所:高山市松倉町 
B目標地点:「飛騨の里」からまたは「匠の里」の先より
C形式:山城  D比高:270m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・堀切・土塁
      ・石垣・石碑・説明板

G時代/人物: 戦国期/三木氏
H満足度:
凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  尾根から10分

J撮影・訪問時期:1999年08月・2005年11月
            2019年10月

  

道案内  

高山市内中心部より国道41号線を下呂方面に進みますと、西之一色町の信号で右折し市道に入ります。2.1Km先で左手に飛騨高山念法寺を過ぎます。ここの右手は匠の里です。この匠の里より1Km先で右折し山道を登ります。尾根まで登ると駐車場になっているところがあり、そこから案内板に従い城址へ向かいます。または、高山市内中心部から国道41号線の上岡本町の信号で国道158号に入ります。飛騨高山美術館の手前で左折し飛騨民俗村飛騨の里へ向かいます。約1Km先が飛騨の里です。飛騨の里を通り過ぎると、松倉城の案内があるのでそれに従い山道を登ります。尾根上の駐車場に至ります。
 
訪城備忘録

飛騨地方でこれほどの石垣の城がと驚かされたのが率直な気持ちでした。主郭腰郭を取り巻く石垣、三の丸下の石垣はよく残ります。二の丸は破壊が激しいのか腰郭や三の丸の石垣に比べると遺構がはっきりしません。二の丸の旗立岩と呼ばれる巨石が印象的です。その横に大手道の標識がありますが、これは三木氏時代と言う事なんでしょうね。主郭の北側尾根には段郭が続き先端には横堀が残りますがあまり明瞭とは言えないものです。(この北側尾根には本丸の城址碑の右横から崩落した石垣沿いに降りていく道があります。)

2019年10月に再訪しました。時期もあるかとは思いますが、やや草木が多かった気はしますが、飛騨唯一の総石垣の城。戦国後期の石垣が迫力があります。 この石垣はだれが積んだのか? なぜに高山城は徹底的に破壊され、石垣もほとんど残っていないのに、松倉城は隅石もきちんと残り、破城すらされていないのはなぜか? 飛騨は金森氏が入って、主要の城郭が石垣のある城になってます。鍋山城、小島城、古川城、同様にこの城も金森氏の改修なんでしょうけど、史料では高山城築城前は鍋山城に入り、改修を始めたが、城地が狭いために高山城を新たに築いたとされているはずです。松倉城の建物は江戸期早々に取り壊されたという資料もあるようです。では、江戸期の松倉城の役割はなんだったんでしょうか? そして残った理由は何??

本丸腰郭南側石垣
本丸腰郭西側石垣
歴史

三木自綱により天正七年(1579年)に築城したとされます。三木氏(初代は正頼)は飛騨守護京極氏の守護代でしたが、京極氏に代わりこの地方を支配し三木氏四代直頼は、桜洞城を築いて三木氏の本城としました。五代良頼は姉小路氏を滅ぼし、六代自綱が永禄元年(1558年)に天神山城(のちの高山城)の高山外記、畑佐城の山田紀伊守を、天正五年(1577年)には中山城の岡本豊前守を打ち滅ぼし、天正十年(1582年)には江馬輝盛を八日町の戦いで滅ぼし飛騨を平定し、桜洞城を冬城に松倉城を夏城としました。天正十三年(1585年)に豊臣秀吉の命で飛騨に侵攻した金森長近・可重父子の攻められ、自綱は高堂城で降伏し、松倉城は自綱の子の秀綱・基綱が守るも落城し廃城となりましたが、金森氏はこの城を改修して総石垣の城にしたようです。この時、西側を大手道とし、東側を搦手としたようです。 完全の廃城は元和一国一城令の際か、金森氏が改易された際なのかは不明のようです。

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朝霧の中、三の丸石垣  
本丸南下石垣
本丸西下石垣
本丸北西角下石垣
三の丸下石垣
現地説明板より
  
 二の丸より高山方面遠望     本丸    

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