飛騨 神岡城



ファイルNo0419


        模擬天守  

@ かみおかじょう 
  別名 東町城・野尻城・沖野城

A住所: 飛騨市神岡町城ケ丘
    旧:吉城郡神岡町

B目標地点:神岡中学校の横
C形式:丘城  D比高:60m 
E現況:畑地・山林

F遺構等:堀・土塁・模擬天守
G時代/人物: 戦国期/江馬氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  3分


J撮影・訪問時期:2002年08月・2024年03月

  

道案内 

国道41号線の飛騨市神岡町、船津北の信号で国道471号線に曲が船津橋で高原川を渡ると国道は右折で、そのまま国道を進みます。約1.8km先、(道の駅「宙ドーム神岡」の約200m手前)を逆V状に右折しすぐを左折します。約300m先右手が城跡です。反対側に駐車場があります。

訪城備忘録

門と天守が模擬ですが建てられています。天守は二層のこじんまりとしたものですが、国道41号線側から見るとこれがなかなか堂々として見えます。遺構としては空堀が整備された状態で残っています。2024年03月に再訪しあmしたが、3月31日まで冬季休業ということで中には入れませんでした。正面の山や神岡鉱山側が奇麗に見えました。

外堀
内堀
歴史

別名、野尻城、沖野城、あるいは、東町城とも云われました。江馬の本城の旭城(高原諏訪城)の出城とも云われています。永禄年間(1558〜1569年)に甲斐の武田信玄が越中攻めに備え、その重臣の山県昌景が江馬氏に命じて築城させたとも伝えられています。武田勢が退去後は江馬氏の家臣の河上中務尉が居城としましたが、江馬氏が滅びて後は金森氏が入国し、その家臣の山田小十郎が城代を務めました。元和元年(1615年)の幕府により一国一城令によって廃城となりました。現在の城は、三井金属鉱業株式会社が神岡鉱業所創業百年を記念して、昭和45年6月丸岡城や犬山城を参考に戦国時代の城郭を再現したものです。 <現地案内板より>

外堀と土橋状
模擬天守
城跡北側眺望
神岡鉱山遠望
  
模擬天守
内堀
内堀と城門・天守
内堀
城門と天守
内堀
オブジェクトの穴を覗く
天守

近くの城・関連の城:江馬下館 高原高原城 麻生野城(洞城) 石神城 傘松城 寺林城 政元城

          




金森宗貞屋敷 4021
@ かなもりそうていやしき   別名 金森宗貞邸・茂住宗貞邸   
A住所: 飛騨市神岡町東茂住  旧:吉城郡神岡町  B目標地点:金龍寺
C形式:平城(神通川の河川段丘上)  D比高:ーーm E現況:寺
F遺構等:郭・碑・説明板  G時代/人物: 戦国期/金森氏(茂住氏) H満足度:
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:1分
J撮影・訪問時期:2024年03月  

飛騨市神岡町の国道41号線と国道471号線の分岐点の信号からさらに国道41号線で富山県県境へ進みます。約15Km先、国道41号線沿いの左側が金龍寺てす。

方形の敷地に寺があり、現在は北と南は高い石垣になってます。(本堂背後の西側は見ませんでした。) この石垣、往時の石垣ではないと思うんですが、基礎はこの部分に石塁があったものと思われます。北東側は国道41号線の改良で削られてしまっているようです。往時は四方を石垣で取り囲み、四隅に櫓を建ててあったという事ですからほぼほぼ館城ですね。

【歴史】
元々は越前の商人で糸屋彦次郎と言ったようです。金森長近が越前大野の領主時代に繋がりができたようです。天正十三年(1585年)、長近が飛騨に転封した以後に、長近によって飛騨に招聘され、鉱山開発に従事ました。茂住宗貞と名乗り、その後、長近から「金森」の姓を与えられ、金森宗貞と名乗りました。屋敷をこの地に構えましたが、四方を石塁で囲み、四隅に櫓を上げ、南北東に櫓門があったようです。慶長十三年(1608年)、長近が死去した際、屋敷を焼いて、北陸へ退去したようです。最終的に敦賀・小浜で海運業を営んだようです。長近死後に退去したのは、鉱山開発で得た利益で相当に贅沢をしていたようで、家中内で敵も多かったようで、そのため、退去したようです。

碑と説明板    寺の北側
寺の南側       本堂