大和 | 宇陀松山城 |
ファイルNo1571 |
整備が進んた古城 遺構は近世城郭に近い 破城の痕跡も残る
@ うだまつやまじょう |
道案内 ←登城口 | |||
名阪国道(国道25号線)の針インタで下り、国道369号線を南下します。約10km先の玉立橋東詰めの信号を右折します。約1.2km先のひのき坂北の信号を通過し、さらに、約1.2km先の西峠の信号で直進して国道165号線を越えます。約2km先の榛原の信号で右折し国道370号線に入ります。すぐ約100m先のY字を斜め左の国道370号線を進みます。約4km先、内原の信号で左折し国道370号線を進みます。約3km先が拾生の信号で右が道の駅宇陀路大宇陀です。(宇陀高校大宇陀校舎の500m先を左折し、500m進みます。そこで右折した先が春日神社です。) 春日神社近くには車が駐車する場所がありませんので、春日神社から1km南の道の駅「宇陀路大宇陀」から、宇陀の町並みを見ながら春日神社に向かう方がよろしいです。 |
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訪城備忘録 | |||
2002年に訪れ、2013年に再訪しました。2002年訪城時は6月に近い5月で、主要部は腰までの草が生い茂っている状態でした。オフ会での訪城でしたので、メンバーと草木を藪漕ぎし、共同で大門と天守台の石垣のそばを草刈して写真を撮りました。2002年当時は整備前のまさに埋もれた古城という感じでしたが、2013年に再訪では、きれいに整備され、戦国の城が蘇っていました。春日神社から登って行きますが、主要部最初の横掘、雀門付近の石垣、本丸への石段、天守台周囲の石垣と、この城は昔の戦艦にでもいる感じで、城域、郭の数としては広大な領域というわけではないようですが、一つの郭は大きな郭を有しています。そびえる本丸部分の下に帯郭と東西に御加番の大きな郭が付属しています。大門の石垣は角が削られており、破城の痕跡のように見えます。二の丸は藪のままですが、それ以外は整備が本当に進んた感じです。 2016年10月に再訪城しました。 各所に説明板が増えていました。10月とは言え、まだまだ草が青々としています。遺構をみるのは見ずらいのですが、光景としては、この緑の絨毯的な景色の方が好きですねぇ。 |
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宇陀三将と呼ばれた秋山氏の本城として南北朝期に築城されたとされます。天正十三年(1585年)に豊臣秀長が大和郡山城に入り、秋山氏は伊賀に追放されたとされます。秋山城には伊藤氏、加藤氏などの居城となりました。慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは、その時の城主の多賀秀種は西軍に付いたため改易され、変わって福島正則の弟の福島高晴(孝治)が入りました。この時に城は大改修され、名前も松山城と呼ばれるようになったようです。元和元年(1615年)に、大阪夏の陣で高晴が大阪方に内通したとして改易され、城は小堀遠州によって破城されました。同年に織田信長の次男の織田信雄が宇陀三万石と上州甘楽郡二万石を与えられ、麓に陣屋を築きました。元和三年(1617年)に信雄の四男の信良に甘楽郡が分与され小幡藩となりました。宇陀松山藩は信雄ー高長ー長頼ー信武と続きますが、元禄八年(1695年)、信武が家臣を殺害し自殺したため、信休は丹波柏原に減封され二万石で移封となり、宇陀松山はその後は天領となりました。 |
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