大和 宇陀松山城



ファイルNo1571

整備が進んた古城 遺構は近世城郭に近い 破城の痕跡も残る

                    大門から本丸天守台を見上げる  

@ うだまつやまじょう 
  別名 秋山上城 秋山城 松山城 
A住所:宇陀市大宇陀春日〜拾生
    旧:宇陀郡大宇陀町

B目標地点:春日神社
C形式:平山城  D比高:150m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・天守台・堀・土塁・碑・説明板
G時代/人物:南北朝期/秋山氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2002年05月・2013年12月
             2016年10月

  
道案内 ←登城口

名阪国道(国道25号線)の針インタで下り、国道369号線を南下します。16km先榛原区中心部のY字を直進して榛原中心部に入ります。1km先の荻原の信号で斜め左方向の国道370号線に入ります。300m先榛原ロータリの信号で右折し、200m先の榛原駅前の信号から6.4km先、内原の信号で左折します。国道370号・166号共用線を進みます。2.8km先の信号で左折し、大宇陀高校前を通過します。 (500m先を左折し、500m進みます。そこで右折した先が春日神社です。) 春日神社近くには車が駐車する場所がありませんので、春日神社から1km南の道の駅「宇陀路大宇陀」から、宇陀の町並みを見ながら春日神社に向かう方がよろしいです。
 
訪城備忘録

2002年に訪れ、2013年に再訪しました。2002年訪城時は6月に近い5月で、主要部は腰までの草が生い茂っている状態でした。オフ会での訪城でしたので、メンバーと草木を藪漕ぎし、共同で大門と天守台の石垣のそばを草刈して写真を撮りました。2002年当時は整備前のまさに埋もれた古城という感じでしたが、2013年に再訪では、きれいに整備され、戦国の城が蘇っていました。春日神社から登って行きますが、主要部最初の横掘、雀門付近の石垣、本丸への石段、天守台周囲の石垣と、この城は昔の戦艦にでもいる感じで、城域、郭の数としては広大な領域というわけではないようですが、一つの郭は大きな郭を有しています。そびえる本丸部分の下に帯郭と東西に御加番の大きな郭が付属しています。大門の石垣は角が削られており、破城の痕跡のように見えます。二の丸は藪のままですが、それ以外は整備が本当に進んた感じです。

2016年10月に再訪城しました。 各所に説明板が増えていました。10月とは言え、まだまだ草が青々としています。遺構をみるのは見ずらいのですが、光景としては、この緑の絨毯的な景色の方が好きですねぇ。

天守台
歴史

宇陀三将と呼ばれた秋山氏の本城として南北朝期に築城されたとされます。天正十三年(1585年)に豊臣秀長が大和郡山城に入り、秋山氏は伊賀に追放されたとされます。秋山城には伊藤氏、加藤氏などの居城となりました。慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは、その時の城主の多賀秀種は西軍に付いたため改易され、変わって福島正則の弟の福島高晴(孝治)が入りました。この時に城は大改修され、名前も松山城と呼ばれるようになったようです。元和元年(1615年)に、大阪夏の陣で高晴が大阪方に内通したとして改易され、城は小堀遠州によって破城されました。同年に織田信長の次男の織田信雄が宇陀三万石と上州甘楽郡二万石を与えられ、麓に陣屋を築きました。元和三年(1617年)に信雄の四男の信良に甘楽郡が分与され小幡藩となりました。宇陀松山藩は信雄ー高長ー長頼ー信武と続きますが、元禄八年(1695年)、信武が家臣を殺害し自殺したため、信休は丹波柏原に減封され二万石で移封となり、宇陀松山はその後は天領となりました。

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天守台斜面石垣         横掘   
本丸から天守郭
本丸
天守郭石垣
2002年撮影   天守郭石垣   2013年撮影
2002年撮影  天守郭石垣  2013年撮影
2002年撮影   天守郭石垣   2013年撮影
天守郭石垣
北側張出(櫓)石垣
大門
2002年撮影 大門付近石垣  2013年撮影
2002年撮影  大門付近石垣   2013年撮影
  
         本丸   2002年撮影  東帯郭から二の丸方向

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