摂津 能勢 丸山城 



ファイルNo1824

能勢氏初期の城

         堀切  

@ まるやまじょう 
  別名 

A住所:豊能郡能勢町地黄
B目標地点:清晋寺
C形式:山城  D比高:60m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀・堀切・竪堀・土塁・碑
G時代/人物:鎌倉期〜/能勢氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  寺から15分

J撮影・訪問時期:2008年01月・2016年02月

  

道案内 

京都縦貫道の亀岡インタを下り、国道423号線を横切り、約800m先の信号で左折します。すぐに亀岡運動公園でここから約7km先、湯の花温泉西の信号で斜め左折し府道731号線に入ります。約2.5km先の本梅の信号で左折し国道477号線に入ります。約4km先が県境で、そこからさらに約7km先が地黄の信号で、そこから約800m先右手に丸山城の碑と説明板があります。裏手の丘が城跡です。国道を約100手前の林道に入って天王丸側から城域入るか、約300m先の右手奥200m先が清晋寺で、この右手(東側)の丘の先端が城跡でここに大手道があります。 清普寺は能勢氏の菩提寺で、能勢氏の墓があるとともに、地黄陣屋の門が山門に、大広間が本堂に移築とも言われますが、違うようです。

訪城備忘録

久しぶりに行ったら新道沿いに説明板のある駐車場がありました。(東側斜面の木々が伐採され裸山になってました。ここからも登れ、中腹には土塁と横掘?が確認できます。=2021年では草木が伸びて斜面は登れません。) 

車を清晋寺前に駐車し、城跡のある丘を見ると、麓に宝塔が建てられているところが見え、この脇から登ります。寺からは、水田を横切って進みます。登り始めてすぐ「丸山城址」の碑がありました。道なりに登ると南側の郭のところに丸山神社が建てられていて、本殿の脇から奥に入ると主郭の下を巡る帯郭に至ります。この帯郭は主郭下を馬蹄形に巡っています。主郭は長円のような形で淵に土塁が三日月状に残っています。北側に下りた帯郭にも三日月状の土塁があり、西側には主郭向かって竪堀状のスロープがありました。さらに北側に下りると堀切を越え、郭があり、北側に土塁が横たわり、その先は斜面を降りると現在は林道になっていますが、往時は大堀切であったと推測されます。全体的に古い感じの城跡という感じですね。

登城道入り口の碑
歴史

清和源氏頼光系で、多田源氏である源満仲からの流れて、鎌倉中期、多田頼綱の孫の国基が能勢に入り、能勢氏を名乗ったとされ、国基がこの城を築いたと考えられます。(一説には平安末期には築城されたともあるようです。) 室町期には幕府御家人として北摂屈指の勢力にまで成長し一時期は芥川山城から今里城なども支配に置きました。能勢頼道は将軍足利義輝に仕え、のち織田信長に属しましたが、天正六年(1578年)、荒木村重の信長離反の際に曖昧な態度であったため、天正八年(1580年)、織田方の多田領主塩川長満に謀殺されました。頼道の跡を継いだ弟の頼次は、天正十年(1582年)、本能寺の変の際に明智光秀に加担し、豊臣秀吉方の河原長右衛門宣勝らに攻められて城は落城、能勢頼次は一時没落しました。能勢頼次は、慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは東軍に付き、その戦功により旧領(約3500石)に復し、江戸期は地黄陣屋を築き、以後、明治維新まで代々旗本能勢氏(4008石)が受け継ぎました。

堀切
  主郭土塁         主郭西側の竪堀状スロープ
主郭北側下の郭と土塁     北側の堀道・土塁 
東側斜面下
中腹の土塁        堀切と土橋
堀切          天王丸手前
手前土塁と主郭を見上げる
北側より南(主郭)側を見る
天王丸下           地黄陣屋より丸山城
 
城跡遠望            清晋寺(能勢氏菩提寺)
現地説明板より          城跡表示板

近くの城・関連の城:地黄陣屋