摂津/ 地黄陣屋



ファイルNo1549

(旧)中学校の周囲に陣屋の石垣が残る。陣屋と言いながらまさに城

          大手虎口石垣  

@ じおうじんや 
  別名 地黄城 

A住所:豊能郡能勢町地黄
B目標地点:旧/東中学
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:中学校敷地・田畑

F遺構等:郭・石垣・説明板・碑
G時代/人物:江戸期/能勢氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  5分
J撮影・訪問時期:2000年10月・2008年01月
  ・2016年02月
・2021年01月・02月

  

道案内 

京都縦貫道の亀岡インタを下り、国道423号線を横切り、約800m先の信号で左折します。すぐに亀岡運動公園でここから約7km先、湯の花温泉西の信号で斜め左折し府道731号線に入ります。約2.5km先の本梅の信号で左折し国道477号線に入ります。約4km先が県境で、そこからさらに約7km先が地黄の信号でその信号を斜め左に入ります。約1km先左手が旧:東中学校で、ここが城跡です。
 
訪城備忘録

2000年10月以来の再訪でした。変わらずの風景という感じです。中学校の敷地(現在は廃校)になっています。周囲を巡る石垣、虎口の石垣はよく残ります。下段と上段に郭が分かれていますが、往時からそうだったんでしょうか? 山間の居館としてはなかなか広い空間です。下段には狭い水堀で囲まれた方形の箇所があり、鳥居があって、「能勢氏古城址」の大きな石碑が立っています。

なお、北面の石垣は印内積み<印南積み>というらしいです。これは、丹波印南(現在の京丹波町院内)の石工が積んだ積み方で牛蒡積みの一種でこの石垣の謂れということらしいです。 近くの丸山城(戦国期の能勢氏本城)の西麓にある清普寺は能勢氏の菩提寺です。能勢頼次始め、江戸期の当主などの墓が並びます。この寺の山門(門)として、本堂(大広間)として、地黄陣屋からの移築とも言われてますが、違うようです。

2021年再訪 中学校は廃校となり、体育館やテニスコートは取り壊されて無くなり、ただっ広い広場になってました。 冬場という事もあり、なんか物寂しい感じでした。

城址碑と説明板
歴史

能勢氏は多田源氏である源満仲からの流れて、多田頼綱の孫の国基が能勢に入り、能勢氏を名乗ったとされます。戦国期までは丸山城を本拠としていましたが、天正十年(1582年)、本能寺の変の際に明智光秀に加担し、豊臣秀吉方の河原長右衛門宣勝らに攻められて、能勢頼次は一時没落しました。能勢の地は、塩川氏を経て、天正十六年(1588年)には薩摩の島津氏の在京領地となりました。能勢頼次は、慶長五年(1600年)の関が原の戦いでは東軍に付き、その戦功により旧領(約3500石)に復しました。慶長七年(1602年)に頼次は地黄陣屋に着手、元和元年(1615年)に完成したとされます。以後、明治維新まで代々旗本能勢氏(4008石)が受け継ぎました。

南面石垣   西面石垣
「能勢氏故城址」と刻まれた碑        北面石垣    
  
城址碑と説明板と西面石垣
西面石垣
大手虎口石垣
城址碑横にあるモッコクの大木
2021年訪城
隅石も落としのような積み方に見えるな。
写真右端近くの下、石垣の石が円弧を描いてる。妙な積み方だな。
落とし積みに見えるな。幕末の積み直しやろか?
写真の真ん中で石垣の右と左で区切りがあるな
清普寺(せいふじ)  2021年02月
山門
本堂

近くの城・関連の城:丸山城・野間城