丹波 沼ケ谷城
十倉陣屋



ファイルNo3979


              主郭背後の大堀切              

@ ぬまがだにじょう 
  別名  

A住所:京都府綾部市十倉中町沼ケ段
  (十倉神社:綾部市十倉中町元陣屋)

B目標地点:如是寺
C形式:山城  D比高:60m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・堀?
G時代/人物:戦国期?/渡辺氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  15分

J撮影・訪問時期:2023年10月

  

道案内 ←城跡   ←十倉陣屋

 京都縦貫道の京丹波わちインタを下り、国道27号線を綾部市街地に進みます。約5km先、山家の信号で右折し府道1号線に入ります。約7.5km先(十倉の信号の1km手前)を左折します。角に「る〇〇に学園」の看板があります。S字の登り道を登り、途中で左に山へ向かうダートの道がありますので、ここに入ります。 200mほど行った所で左折し突き当りのパイプの小さい橋を渡り、渡ったら左の細い道を登ります。 U字に登って行くと左手に民家の入口の小道があり、これを越えるとフェンスのゲートです。ゲートをくぐり登ると渡辺さんのお墓があります。 ここの奥へ、ただっぴろい平坦地を越えてから登って行くと尾根先端が城跡です。

訪城備忘録

この城は迷いました。集落の背後は墓地があるんですがフェンスがあってゲートも見つからず中に入れません。行きは、西側の如是寺(ここは十倉陣屋の領主で幕末の谷圭計などの墓があります。)の裏手のゲートが開いているのでここから入り、右手に進んで、大きな谷を越えてたら、先ほど墓地です。 墓碑はけっこう古いものが並んでいます。ここに北へ山に向かっていく塹壕の山道があります。これは上の尾根先端に通じて、さらに奥の山に行く道です。これを登ってしまいましたが、城跡は東に伸びた尾根先端ですので違いますので注意ください。案内ルートで行かれれば安全です。訪城記は道案内通りに記述します。

フェンスゲートを越えると墓地群とは離れた感じでポツンと渡辺家のお墓があります。城主のご子孫かはわかりません。わりと新しいお墓でした。お墓の裏手のやや右手方向に平坦地があり(城跡の遺構ではないでしょうけど)、その端に尾根先端に登るための坂道とその横に竪堀状のL字の堀があります。この坂を登ります。

坂は左に曲がりながらさらに右に曲がって上の郭まで登ります。ここは主郭下の副郭という事になります。副郭は薮状態です。さらに、副郭端から主郭への坂道があります。坂道を登り左に曲がると主郭です。主郭には南から登って折れて東から主郭に入るという経路になります。

主郭もやや薮状態ですが、わりと広い郭で削平もしっかりしています。主郭西端は分厚くて高い土塁があり、南側へ低い土塁が回り込んでいます。西の高い土塁の北側は開いているのは虎口だろうか? 主郭の高い土塁の西下には高低差が6mほどある大堀切があります。北側へ堅堀が落ちています。この大堀切はなかなか見ごたえあります。 この大堀切を越えた尾根のも小さな堀切もありました。

周囲の日置谷城梨子ケ岡城とはまた違った趣の城でした。居住性を感じますので館城という事でしょうか。

十倉陣屋は府道1号線沿いの消防団車庫の脇を登ったところが陣屋の中心地のようです。この一帯の住所は元陣屋といいます。集落内とその背後か台地になっていてその辺までが陣屋の区域のようです。フェンス沿いに歩いて消防団車庫まで下りましたが写真を撮るのを忘れました。

集落内城跡下にある蔵
歴史

【沼ケ谷城】
詳細不明ですが、渡辺氏が城主と伝わります。

【十倉陣屋】
山家藩谷氏(山家陣屋)の分家に当たる旗本の陣屋です。寛永四年(1627年)、山家藩主谷衛友が死去し、子の衛政が跡を継ぎましたが、この際、衛政の兄弟の衛勝の子の衛清に二千石分与され、衛清がここに陣屋を築き、旗本として明治維新まで続きました。

県道から城跡方面を見る     主郭土塁       
道案内(地理院地図より)
県道からの進入道       進入道からさらに分岐の小道
沢を渡って左手に登る     フェンスのゲートをくぐって登る
城跡下進入口
  
左の登城道と竪堀状のL字堀
L字の堅堀状の堀
城道と堀(城道が右手へ曲がり登っている)
城道と堀
坂土橋と反対側
坂土橋から堀を見る
主郭下の南側下の帯郭状       主郭東側下の郭と主郭の坂城道
主郭の坂城道(上から)    主郭虎口(主郭内から)
主郭内と土塁
主郭の高い土塁
主郭と土塁
主郭の高い土塁
主郭背後の大堀切
主郭背後の大堀切
尾根側の小さな堀切
十倉陣屋
陣屋あたり

近くの城・関連の城:梨子ケ岡城 日置谷城 上林城