道案内 |
京都縦貫道の京丹波わちインタを下り、国道27号線を綾部市街地に進みます。約5km先、山家の信号で右折し府道1号線に入ります。約17km先を左折し約100m先左上が上林寺です。お寺を経由しないで登ろうとしたんですが登り口が分からず、申し訳なんですが境内を通らしていただき、西端にある小さなお堂の裏の網が縛ってないのでここから山に入り、斜め右へ登って行くと集落からの道だったと思う小道にぶつかり、尾根まで登ります。尾根の右手が古城とも言われますが削平地があるのみです。左手に登って行きます。途中、右手上へ北側に尾根が延びています。ここは東城です。今回パスしました。東城の端をかすめてさらに小道を登ると城跡です。
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訪城備忘録 |
上林禅寺の背後西側に城跡はあります。人によっては上林寺の背後の尾根上を東城、本城手前の尾根上を中城、そして本城の三つの城跡とされましたが、私は本城手前を東城、そして、本城の二つの城跡と認識させていただきます。その東城、尾根頂部に郭と北側に土橋のある堀切が残っているとの事ですがパスしました。ですから、この個別城跡備忘録は本城のみの記述となります。なお、日置をこの地では「へき」と呼称する事があるようです。
東城の端を抜けて行くとやや右手方向に遺構が見えてきます。南側斜面は主郭と主郭前郭の下に大きな段郭が二つ南北に並びます。その東側と西側に竪堀が落ちているのですが、竪堀と言うより斜面に沿った斜め空堀(横堀)と表現したいです。南斜面のふたつの郭は斜め空堀に沿って高い土塁があり、下の郭はほぼ四方を土塁が巡ります。また、下の郭の南中央は土塁が切れて広く開放されてます。虎口に見えますが、こんな開放の仕方はありかなってちょっと違和感有です。西の斜め空堀は西側へ屈曲しまた北側を向くというクランク状になってます。東の斜め空堀も南の上の郭端で主郭前郭の下を通るように屈曲し、東の斜面に落ちて行きます。なかなか複雑ですね。 南斜面の斜め空堀(竪堀)に挟まれたこの二つの郭ですが、斜め空堀(竪堀)や郭周囲の土塁はしっかりと構築されているのに郭内はやや削平度が甘い感じはします。この部分は陣城だろうか?
主郭前郭は主郭前面と側面の途中まで巡ります。主郭はひょうたんのような形をしていて南側の幅があり、北側は幅がなくなります。ほぼ全周に土塁が巡り、南の虎口と郭の一番幅のあるところの東西に虎口があります。東側虎口は主郭前郭が側面に廻り込んだところに出ます。西の虎口は土塁囲みの出郭に出て、主郭前郭の西に廻り込んだところに繋がります。この西出郭、規模的には小さな郭で、馬出のような感じでこれが織豊系と言われるひとつなんでしょ、(斜めに空堀も竪堀状ですが機能的には横堀で織豊系と言えますよね。) 主郭、主郭前郭、出郭ともの削平はしっかりされていると感じます。
主郭北側の下に堀切、その先の尾根にもうひとつ堀切があり、二重堀切になってます。けっこう大きな堀切です。西の出郭の西下にも大きな堀切があり、この二カ所の堀切から落ちる竪堀の間に畝状竪堀があります。(西側斜面、東側斜面も畝状竪堀にはなってます。) この北西の畝状竪堀ですが、堀切から落ちる竪堀は明瞭で、その間にある畝状竪堀はやや浅くなってますが、肉眼では十分な迫力です。この堀切、畝状竪堀は織豊系より前の構築に感じます。南斜面の二つの郭と二つの斜め空堀、主郭の南半分と西出郭は後期改修ではないかなぁ。
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上林城から・中央手前の低い山が城跡
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築城時期、築城者などは定かではないようです。 この地の豪族の上林氏の城とも言われますし、また、今の残る遺構から織豊系の縄張とも言われ、明智光秀系の陣城、あるいは、臨時の城のような存在であったとも言われます。ただ、光秀系であったとしてもそれは改修であり、斜面の畝状竪堀など見るとその前は上林の城であったのかもしれない。
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