山城/ | 伏見城 |
ファイルNo1548 |
① ふしみじょう |
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【道案内】 ← 模擬天守のある場所(伏見桃山運動公園) 国道24号線の御香宮前を東に入ります。200m先でJRを越え、さらに150m先の信号で左折します。道なりに登って、800m先の伏見桃山運動公園の駐車場からすぐです。 【訪城備忘録】 まだキャッスルランドという遊園地があった頃に一度来ましたが、平成十五年(2003年)に閉園後、模擬天守だけは残され、周囲は運動公園として野球場、サッカー場になってます。ここも城内の一部(治部少丸)でしょうけど、聳え立つ模擬天守と模擬櫓門のみで遺構はないです。本来の本丸は明治天皇陵となっています。この陵墓内には石垣など残っているようですが、当然ですが、立ち入り禁止で通常は入れません。南側の道路から急な石段を比高50mほど上がると遠くに陵墓が見えます。京都市内にある移築された建物など見に廻ってみました。拝観料・駐車代がバカになりません^^; ① 移築復元石垣 桃山東小学校(伏見区桃山町伊庭) 伏見桃山稜の東側にある小学校内に、昭和五十二年(1977年)に土地整備工事の際に発見された秀吉期の伏見城石垣が、100mほど発見された内、15mほどここに移築復元されています。残りは御香宮境内に保管されています。 ② 北堀公園 (伏見区桃山町大蔵) 模擬天守の北側下、藤城小学校の東側に北堀公園があります。長く堀状の窪地が200m以上続いていて、さらに、L字に曲がっています。まさに堀跡という雰囲気ですが、資料で遺構とは書いてあるのものを見かけません。堀の遺構としては治部池などは内堀跡だそうです。それとここは公園の無料駐車場があります。 伏見城移築建物移築門 ③ 御香宮山門=秀吉期大手門 (伏見区御香宮門前町) 御香宮山門は秀吉時代の伏見城の大手門の移築と伝わります。境内の天満宮には発掘石垣が保管され、また、幕末の鳥羽伏見の戦いの碑があります。なお、境内で留めるより外の100円パーキングがお得です。御香宮・源空寺だけでなく、伏見の酒倉、幕末有名な寺田屋など散策もいいですよ。 ④ 源空寺山門 (伏見区東大手町) 御香宮から近鉄桃山御陵前駅、京阪伏見桃山駅を越えると大手前の商店街アーケードです。300mほど進んで路地を右折した先に源空寺があります。ここの山門は塔のような二階建てで、この門が伏見城からの移築とされています。この山門の中に大黒天像などが祀られています。この大黒天さまは、伏見城の巽櫓に置かれていたものだそうで、秀吉の持念仏だそうです。 ⑤ 養源院の血天井・本堂 (東山区三十三間堂廻り) 三十三間堂の道を挟んで東側にあります。説明を聞くとここの本堂も伏見城からの移築だそうです。また、ここの天井は移築の際、鳥居元忠ら300名余りが切腹した時にできた血痕のついた廊下を天井に使い供養を兼ねたとされ、血天井と呼ぶそうです。寺の方の方の説明では、本堂南側の天井は、元忠が切腹し、片足を伸ばした状態で倒れこんだ形が頭、腕、刀、胴体の形が残っているとのことですが、果たして?。 ここのお寺、徳川秀忠の奥さんのお江(淀君、お初を含め浅井三姉妹)が再建したものですが、壁画、室内は当然、廊下の血天井も撮影禁止です。この寺の他に血天井があるのは、正伝寺(北区上賀茂)、源光庵(北区鷹峯北鷹峯町)、興聖寺(宇治市)、宝泉院(左京区大原)、妙心寺(右京区花園)です。 ⑥ 西本願寺唐門 (下京区本願寺門前町) (国宝) 天正十九年(1591年)に豊臣秀吉の寄進により大坂天満からこの地に移転したと伝わります。その後、唐門は元和四年(1618年)に伏見城より移築されたと伝わります。彫刻が素晴らしいため日が暮れるのを忘れてしまうくらいのため「日暮門」とも呼ばれます。2021年に修復が完了しました。西本願寺には聚楽第の移築と伝わる飛雲閣もあります。 ⑦ 豊国神社唐門 (東山区茶屋町) (国宝) 江戸期の徳川氏によって豊国神社は廃祀されていましたが明治になって方広寺大仏殿跡に社殿が再建されました。唐門は伏見城から金地院を経てここに移築されたものです。聚楽第の遺構とも言われている大徳寺の唐門・西本願寺の唐門とともに国宝三唐門です。 ⑧ 高台寺観月台・時雨亭・傘亭・表門 (東山区下河原町) 慶長十年(1605年)に豊臣秀吉の夫人の北政所(高台院・おね)が秀吉の菩提を弔うため創建されました。開山堂・霊屋・表門・観月台・傘亭・時雨亭は創建当時の建物とされ、表門・観月台は伏見城の移築とされます。また、千利休が設計した茶室とされる傘亭・時雨亭も伏見城の遺構とされます。庭は小堀遠州の造園との事です。高台寺の参道反対側の圓徳院も伏見城化粧御殿の移築で、庭も伏見城からの移築とされます。車なら拝観料、駐車場は覚悟だよね。駐車は高台寺の坂下で八坂神社近くの100円パーキングに止めたです。 ⑨ 金地院方丈 (左京区南禅寺福地町) 南禅寺の塔頭のひとつで、方丈は伏見城の殿舎のひとつが移築されたものとされます。方丈の鶴亀の庭園は小堀遠州作らしいです。さらに、明智光秀が寄進した門(柴野大徳寺から明治に移築)があり、明智門と呼ばれています。拝観料要、駐車は南禅寺前の信号付近の駐車場の方が安いかな ⑩ 不明門 (左京区南禅寺草川町) 蹴上の信号から府道182号線(白川通)に入り、南禅寺前の信号から次の信号までの道沿い右手に由緒ある料理旅館の敷地のようですが、ここに不明門があります。前を通るたびに気になってたんですが、近くに停車できる場所がなかったんで見れませんでした。今回は金地院のついでに寄りました。 ⑪ 観音寺 牢の門 (上京区三番町) 昔風の住所の言い方ですと「上京区七本松通出水下る」となるようです。他県の人間には上ル・下ルといわれてもいまいちピンとこないです^^; 小さなお寺の山門が伏見城の牢の門を移築したとされます。罪人を釈放する際に使った門らしいです。 ⑫ 源光院 血天井 (北区鷹峯北鷹峯町) 血天井 血の足跡がよくわかる天井でした。 ⑬ 南禅寺 小方丈 (左京区南禅寺福地町) 大方丈は慶長十六年(1611年)に御所の建物の下賜を受けて建てられたものとされ、建物は天正年間(1573~92年)の建物とされます。小方丈は徳川伏見城が元和九年(1623年)に廃城になった後の寛永年間(1624~44年)に移築されたと伝わります。 ⑭ 醍醐寺三宝院 唐門 (伏見区醍醐中山町) (国宝) 伏見城からの移築が確定しているわけでは無いようです。 ⑮ 興聖寺 本堂・血天井 (宇治市宇治山田) 慶安元年(1648年)に移築されたと伝わり、天井が血天井になってます。 ⑰ 宇治平等院 (宇治市宇治蓮華) 最勝院 玄関欄間が移築 ⑯ 宇治平等院旧南門 浄土院養林庵書院 ⑱ 太閤堤 (宇治市莵道丸山) 宇治川改修の堤です。 ⑲ 二尊院 山門 (右京区二尊院門前長神町) 慶長十八年(1613年) 伏見城の薬師門を角倉了以(豪商)がもらい受け寄進したとされます。 ⑳ 正伝寺 (北区西賀茂北鎮守篭町) 方丈と血天井 承応二年(1653年)に南禅寺塔頭の金地院の小方丈が移築されたもので、伏見城の御成御殿の移築とされます。 ㉑ 天龍寺 勅使門(右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町<すすきのばばちょう>) 伏見城から御所に移築され、その後天龍寺に再移築されたようです。 ㉒ 栄春寺 山門 (伏見区桃山町丹下) 墓地には伏見城総構の土塁が残るとされます。 ㉓ 宝泉院(左京区大原勝林院町)<血天井>大原三千院奥 ㉔ 妙心寺<血天井> 未訪問 ********************* A 福山城 伏見櫓 (広島県福山市丸の内1丁目) 伏見城松の丸東櫓を移築したと伝わります。 B 西教寺 客殿 (滋賀県大津市坂本5丁目) この建物は棟札が残されており、伏見城松の丸からの確実な移築物とのことです。それには、慶長三年(1598年)に大谷刑部吉隆の母と山中山城守長俊の妻が施主となって作られたとあるようです。 Bー2 盛安寺 客殿 (滋賀県大津市坂本1丁目ー17) 坂本の中心部からは少し離れたところにあるお寺。明智光秀の位牌が安置されています。この寺の客殿は伏見城の資材を再利用して建てられたと伝わるようです。 C 竹生島神社(都久夫須麻神社) 本殿 (滋賀県 竹生島) 本殿は豊臣秀頼の命により片桐且元が普請奉行で伏見城の御殿を移築したとされます。 唐門・観音堂・渡廊下(舟廊下)は、豊臣大坂城から豊国廟に移築され再移築として竹生島に移築されたとされていましたが、唐門は豊臣大坂城の極楽橋を移築がほぼ確定したようで、豊臣大坂城の唯一の建物遺構と言う事のようです。 D 大通寺本堂・大広間 (滋賀県長浜市元浜町) 徳川家康が教如上人に伏見城の殿舎を贈り、東本願寺の御影堂とされたものでしたが、承応年間(1652~4年)に大通寺に移築されたと伝わります。 E 江戸城 伏見櫓 (東京都千代田区) 本当に伏見城からの移築と言う証拠は無いようです。 F 三渓園 月華殿 (横浜市中区本牧三之谷) 慶長八年(1603年)、徳川家康謁見の際の大名控えの間に使われたとされ、その後、三室戸寺金蔵院に移築され、大正七年(1918年)に三渓園に移築されたものです。 Gー1 明石城坤櫓 (明石市明石公園) 解体調査で移築が確認されたとの事です。 Gー2 月照寺山門(明石城切手門)(明石市人丸町) 伏見城から移築され、明石城切手門として使われていたものが明治に月照寺の山門に再移築されたものです。 H-1浄照寺山門 (奈良県磯城郡田原本町茶町) H-2長顕寺山門(赤門) (奈良県磯城郡田原本町小室) 慶安四年(1651年)、平野長泰の子の長勝が拝領し、浄照寺、長顕寺の山門として移築されたものと伝わります。 I 本山寺 (大阪府高槻市原) 神峯山寺(かぶさんじ)山門前の林道を登ってきます。約2.4km登ったところに有料駐車場があり、ここから8丁(約880m)の山道を登って行くとお寺です。中の門は相当に修復されているように見えます。お寺の雰囲気がいいな。 J 野間大坊 客殿(愛知県知多郡野間) 野間大坊客殿の入口には説明板に寛永年間(1624~44年)に伏見城より移築したと書かれていますが、愛知県の文化財紹介には江戸初期の建物であるとはされてますが、伏見城移築とは書かれていません。 K 守綱寺 本堂内陣(愛知県豊田市寺部町2丁目) 2002年1月に行ったきりで写真が無いですし、記憶も残ってません。^^; 伏見城の軍事評定所を賜り、相当に改築して内陣として使われたと伝わります。 【歴史】 文禄元年(1592年)に豊臣秀吉は指月山(指月伏見城)に築城を開始しましたが、慶長元年(1596年)の大地震で倒壊したため、新たに木幡山に築城を開始しました。慶長二年(1597年)にほぼ完成し、慶長三年(1598年)に秀吉はこの城にて死去しました。慶長五年(1600年)の関が原の戦い前、鳥居元忠が1800名の城兵とこの城を守りましたが、西軍に攻められ落城しました。慶長七年(1602年)に家康にて再建されましたが、元和九年(1623年)に廃城になりました。 |
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近くの城・関連の城:指月伏見城 槇島城 淀城・淀古城・向島城
伏見城の移築遺構を訪ねる あやしいのもあるかもしれませんが・・・。 |
高台寺の開山堂・霊屋は伏見城の資材の転用とも言われています。 |
向島城 3822 本丸説明板→ 城跡説明板→ 三の丸説明板→ |
別名:四谷城 (本丸説明碑)京都市伏見区向島本丸町 (城跡説明碑)京都市伏見区向島丸町(向島市営団地の国道24号線沿い小公園) (三の丸説明板):京都市伏見区二の丸町37番地 遺構はありません。本丸説明板のあるところが本丸やや北側、城跡説明板のあるところが本丸東南側にあたるようです。二の丸は住所表記としては残りますが、宅地で地形も変わってしまったようです。三の丸付近は高低差があり、まだ元々の地形が残ってると言われているようです。向島二の丸町は向島ニュータウンまでの範囲ですが、城跡はその北側の向島二の丸町(旧三の丸含む)までらしいです。 【道案内】 国道24号線の観月橋から約300m先、陸橋が終わる直前、側道沿いの民家に本丸説明板があります。観月橋から約1.2km先、左手の向島市営住宅側へ左折したすぐの右手の小公園に城跡説明碑があります。 三の丸説明板は住宅密集地で車の停めるところはないですので、伏見警察署向島の前の道を西に約200mほど行って、路地に右折し約100m坂を行った先の路地を右折した左手にあります。 【歴史】 文禄三年(1594年)、豊臣秀吉が指月伏見城の支城として指月伏見城から宇治川の反対側に築城し慶長二年(1597年)に完成したとされます。慶長元年(1596年)に発生した地震で指月伏見城は倒壊、秀吉らは一時向島城に避難したともされるようです。 あらたに木幡伏見城が築城され、慶長二年には完成した以後は徳川家康が私邸のように使用したようで、慶長三年(1598年)に豊臣秀吉が亡くなっても家康は向島城に三の丸を築造して居住したようです。元和五年(1619年)、木幡伏見城とともに廃城になりました。 |