越前 金ヶ崎城



ファイルNo1203

織田信長が朝倉・浅井氏に挟み撃ちになり撤退、木下藤吉郎(豊臣秀吉)が殿をつとめた戦いで有名

        金ケ崎城主郭東側尾根三の木戸の竪堀                

@ かながさきじょう 
  別名 

A住所:敦賀市泉〜金ケ崎町 
B目標地点:金ケ崎宮 
C形式:山城  D比高:100m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・堀切・竪堀・石碑・説明板 
G時代/人物:
   〜南北朝期〜/気比氏・新田氏・朝倉氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  15分


J撮影・訪問時期:1995年05月・2004年07月
          2024年06月

  

道案内 

北陸自動車道敦賀インタを下り、国道8号線バイパスを武生(現:越前市)方面に進みます。400m先で左に下りて行き、気比神社前の信号で右折して旧国道8号線に入り、700m先の曙の信号で左折します。(あるいは国道8号線バイパスを800m先<樫曲トンネル500m手前>で側道から国道476号線に左折して1Km先の曙の信号を直進します。) 曙の信号の200m先の信号を右折し、500mほど進み、敦賀港線の踏み切りを渡ると金前寺で、手前左に観光用の駐車場があります。ここから左手中腹が金が崎宮です。金が崎宮から案内に従い城跡を散策できます。

訪城備忘録

駐車場から左手方向に山裾に向かいます。最初にレンガ作りの「旧:敦賀港駅のランプ小屋」の横を通ります。石段を登り、金が崎宮の城址碑から遊歩道を歩き、月見御殿まで登ります。月見御殿のどこまで遺構なのかよくわかりませんが、土塁のような高まりもあります。古墳を利用した郭であるとされます。

尾根上を東に向かうと(通称)三の木戸・二の木戸・一の木戸があります。各木戸の竪堀でこれは明瞭です。二の木戸は今は一方は遊歩道になってますが、往時は二重堀切になっていたようです。さらに、三の木戸と二の木戸の間の平坦地(郭)から北側の段郭を下りると東斜面に畝状堅堀があります。一の木戸よりさらに北西方向に登ると天筒山城北郭群、そこより東側稜線に向かうと天筒山主郭群のようです。なお、二の木戸から麓に降りると途中で二の木戸からの堅堀が横からと下から見られます。麓の金前寺は居館跡と言われるようです。

敦賀港には赤レンガ倉庫や旧:敦賀港駅の駅舎が残ります。

歴史
二の木戸









延元元年(1336年/建武三年)に新田義貞が尊良親王・恒良親王を奉じて、気比氏治の居城であった金ケ崎城に入り拠点としました。翌年、足利方と激戦となり、尊良親王・新田義顕(義貞の嫡子)らが討死しました。その後、正平六年(1351年/観応二年)には足利尊氏の離反した足利直義がこの城に拠ったとされます。長禄三年(1459年)には越前守護斯波義敏の重臣の甲斐常治がここに拠って斯波氏に離反しました。応仁の乱(1467年〜)以降は越前の主権を奪った朝倉氏の支城として機能し、元亀元年(1570年)には織田信長の越前侵攻で天筒山城とともに落城しました。しかし、この時は浅井氏が朝倉氏に味方し織田信長は越前より撤退しました。信長は天正元年(1573年)に再度の越前侵攻で朝倉氏、ついで浅井氏(近江・小谷城)を滅ぼしました。


金ケ崎城主郭(月見御殿)
現地案内板より
城跡遠望
  
駐車場の説明碑      金前寺(居館跡)
金崎宮
金崎宮横の城址碑    合戦碑     
遊歩道途中からの眺望
月見御殿(主郭)
月見御殿(主郭)
月見御殿(主郭)からの眺望 
月見御殿(主郭) 
東の尾根へ(通称)三の木戸
(通称)三の木戸
(通称)三の木戸からの堅堀
(通称)三の木戸(尾根から月見御殿方向)
尾根の平坦地
(通称)二の木戸<二重堀切>
(通称)二の木戸<二重堀切>
(通称)二の木戸<二重堀切>からの堅堀
(通称)二の木戸<二重堀切>からの堅堀
(通称)二の木戸<二重堀切>
(通称)二の木戸<二重堀切>
(通称)二の木戸<二重堀切>から畝状堅堀方向
(通称)一の木戸
(通称)一の木戸の堀切
(通称)一の木戸
 一の木戸の上の郭と切岸 
天筒山城への尾根道
(通称)二の木戸を横から
(通称)二の木戸の堅堀を下から

近くの城・関連の城:敦賀城 疋田城

          

敦賀港
赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫
赤レンガ倉庫
敦賀港の夕陽
旧:敦賀港駅舎
旧:敦賀港駅舎
敦賀港の夕陽
旧:敦賀港駅 ランプ小屋
敦賀ムゼウム(敦賀港の税関などの復元建物)
金ヶ崎城遠望