越前/ | 一乗谷 |
ファイルNo1183 |
戦国の城下町、戦国大名の館群が見学できます。
@ いちじょうたに |
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【道案内】 北陸高速道福井インタを下り、国道158号線を大野方面に進みます。5Km先、天神の信号で右折し天神橋で足羽川を渡ります。渡ってすぐ左折し県道31号線に入ります。1.2Km先左手に朝倉氏遺跡資料館があり、さらに800m先で右折し県道18号線に入ります。1.6Km先一帯が一乗谷遺跡群です。 【訪城備忘録】 県道右手に武家屋敷の発掘現場及び復元武家屋敷の町並みがあります。県道の左手、一乗谷川の先に義景館跡を中心にその背後山麓から南側に湯殿庭園、諏訪館庭園などの遺構が発掘整備されています。義景館跡に建つ唐門は豊臣秀吉が朝倉義景の菩提を弔うために建てた松雲院の寺門で、現在のものは江戸中期に立て替えられたものとのことです。一乗谷の両サイドの入口には上城戸、下城戸があり、下城戸の石垣は大きなものです。庭園跡は武士の庭園というのは全国的にも残っているものが少なく、朝倉氏の栄華を偲べる遺構です。背後の山上には詰め城と言える一乗谷城山があります。 2018年04月、城山に登るつもりで来ましたが、残念ながら雨で断念。桜の咲く一乗谷を散策しました。東大味町に明智神社がありますが、ここは明智光秀が朝倉氏に仕えた時の屋敷跡と言われます。光秀の屋敷跡は長崎城(丸岡)にもあり、ある歴史資料館館長さんに解説してもらいましたが、史料的には長崎城側の方があるようですが、義景に仕えた際にここに移ってきたとも言えるかもしれないとの見解でした。ただ、史料的には無いようですが、地元の方が伝承を受け継いで神社を守られているようです。 2019年05月の夕方に散策しました。唐門に夕陽がスポットライトの如くにあたってました。 2023年07月、新しくなった一乗谷朝倉氏遺跡博物館に行きました。こちらを建設時、船着き場が発見され、それは館内にそのまま残され展示されています。さらに、朝倉氏館の主殿が一部復元され、往時の館が実体験できます。その他、発掘された遺物、書状などが展示され、一乗谷のジオラマも展示されています。 【歴史】 朝倉氏は元々は但馬国の養父郡(兵庫県)中心の豪族でしたが、南北朝の時期に朝倉広景と子の高景が斯波高経に従い越前に入り、黒丸(大黒丸城)に居館を構えたとされます。黒丸で六代続き、七代の孝景の時に応仁の乱(1467年〜)があり、当初西軍であったが、文明三年(1471年)に東軍に帰属してこの頃より徐々に守護職の斯波氏より権力を奪い取ったとされますが、それの前の永亨年間(1429〜41年)頃に教景・孝景の時期に一乗谷に館が築かれていたと考えられます。文明三年以後一乗寺朝倉初代孝景から氏景・貞景・孝景・義景と続き、五代103年にわたり越前を支配しました。天文十七年(1548年)四代孝景が没し五代義景は加賀一向一揆との抗争、永禄四年(1561年)には若狭武田氏への介入などを経て、永禄九年(1566年)には足利義昭が朝倉氏を頼って来るも、義景は動けず、義昭は織田信長を頼り、永禄十一年(1568年)に上洛し足利十五代将軍となりました。元亀元年(1570年)には織田信長は越前攻めを行いますが、浅井氏の離反で撤退、同年の姉川の戦いを経て 朝倉氏は浅井氏と連合して織田氏に抵抗しますが、天正元年(1573年)に織田信長に攻められ 義景は一乗谷より大野に逃れるも朝倉景鏡に裏切られて自刀し朝倉氏は滅亡し、一乗谷も平泉寺衆徒に火をかけられ焼き尽くされました。朝倉氏が滅亡後、前波吉継が桂田長俊と改名し、織田氏に従い信長より越前守護代とされ、一乗谷を拠点としましたが、天正三年(1575年)、一向一揆より攻められ討死、天正四年(1576年)、織田信長は越前一向一揆を掃討し、柴田勝家が越前に入りますが、勝家は北ノ庄に城を築き、一乗谷はそのまま廃城になりました。 |
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越前朝倉氏 初代:広景ーA高景ーB氏景ーC貞景ーD教景ーE家景 ーF<英林>孝景(敏景)−G氏景ーH貞景ーI<宗淳>孝景ーJ義景 内、一乗谷朝倉氏は七代孝景を初代として義景を五代とする。 |
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近くの城・関連の城: 一乗谷城山 東郷槇山城
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一乗谷朝倉氏遺跡博物館 |
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東大味館 明智神社 2017.6/2018.4 |
住所:福井市東大味町 場所は国道158号線側から来ると県道25号線から県道238号線に左折し600m先を右折し集落内を200mほど進んだ左手にあります。 遺構は残ってないです。ただ、地籍図には字名で館を表す地名があるようです。光秀を祀った小さな祠と私設の資料館があります。 |