若狭 / 後瀬山城



 ファイルNo1200

若狭武田氏の本城。長大な竪堀が印象に残った城です。

                  西側の長大な竪堀   

@ のちせやまじょう 
  別名 

A住所:小浜市伏原〜小浜男山 
B目標地点:愛宕神社 
C形式:山城  D比高:180m 
E現況:山林 

F遺構等:石垣・土塁・堀・堀切・竪堀・碑・説明板 
G時代/人物:戦国期/武田氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  40分

J撮影・訪問時期:2003年05月・2015年10月
            2018年12月

   
主郭下東側石垣

【道案内】 

舞鶴若狭高速道の小浜インタを下り、料金所を超えてまっすぐ進みます。1km先、小浜インター口の信号で右折し国道27号線を進みます。2Km先(小浜駅そばを越えたあたり後瀬山トンネル手前)の後瀬山東の信号で右折し80m先で左折し路地を進みます。愛宕神社より登城口があります。



【訪城備忘録】

城域は主郭を中心に八幡神社側麓へ伸びる尾根と北側麓へ(居館跡側)の斜面に郭が配置されています。山の北側の麓の旧小浜小学校跡地・空印寺・八幡神社側には登城できるような箇所が見当たりません。旧小浜小学校跡地と後方の空印寺は居館跡とされます。本来はここからが大手道です。寺と山の間はJR小浜線に分断されていてコンクリートの壁があるので1箇所以外は山側には行けません。八幡神社裏手の山側は取り付く事はできますが崖は急です。愛宕神社より登ることになりますが、訪城時はそれがわからず八幡神社の崖を登ってしまいました。途中で愛宕神社からの道に合流できました。主郭までの尾根道に段郭が続きます。中腹で右手の支尾根に行くと明瞭な堀切・土橋が見られます。これは必見です。主郭下、特に北虎口側・東側に石垣がよく残ります。主郭上部のくの字の石垣は後世(江戸期)の構築物だそうです。ただ、石垣の石は城にあったものを使用しているだろうとの事です。主郭後方には山上御殿があります。以前は草木に埋もれていましたが、今は山上御殿手前の土橋、箱堀などが整備されています。西側尾根を下りていくと巨大な竪堀が4本明瞭に残ります。資料では大きいものは深さ4m、幅10m、長さ65mとの事です。これは苦労して見に行った甲斐がありました。樹木に覆われているため見にくいのですがこの斜面にも多くの郭を配しています。残念ながら畝状竪堀は草木に埋もれはっきりとは確認できませんでした。

2018年12月訪城
3回目で冬の訪城になりました。西側斜面の畝状竪堀も草は枯れて見えるようになってましたが薄い畝でした。最初の訪城時は八幡神社から登ったので通ったのかもしれませんが、中腹の北側尾根(八幡神社への標識有)にある堀切土橋の先には切岸の鋭い段郭が続いてます。ただ、ここから八幡神社への降り口は結局わからなかったです。

【歴史】

大永二年(1522年)に若狭武田氏五代の元光が築城し青井山城から移ったとされます。その後、信豊・義統と続きますが武田氏の勢力は衰退しました。永禄十一年(1568年)に義統が急逝し、元明が守護職を継ぎましたがずでに支配能力が無く、同年に朝倉氏一乗谷に強制移住させられたようです。天正元年(1573年)の朝倉氏滅亡時に元明は救出され信長の旗本として存続しますが、天正十年(1583年)の本能寺の変で信長が横死し、元明は明智方に与したため近江塩津で切腹を命ぜられ武田氏は滅亡しました。後瀬山城は丹羽氏・浅野氏・木下氏の居城となっていましたが、慶長五年(1600年)の関が原の戦い以後に京極高次が若狭に入部し、小浜城を築城したため後瀬山城は廃城になったとされます。なお、若狭武田氏は武田氏の本流で総領家になるとのことです。その証拠は、総領家は代々伊豆守を名乗り、弓馬(流鏑馬など)流派で武田流は(他に小笠原流)、武田氏総領家で一子口伝されるもので若狭武田氏で継がれた事があるようです。武田流は若狭武田氏が滅亡後、細川幽斎に仕えられ、その後は熊本細川家で受け継がれたものです。若狭武田氏は滅亡しましたが、ご子孫は今も健在のようです。

  
主郭手前右側石垣
  
主郭城址碑
(後方の石垣は後世のもの)
  
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支尾根にある堀切と土橋
山上御殿手前の土橋
主郭西側下石垣

近くの城・関連の城: 小浜城

          

現地案内板より
2003年訪城写真
   主郭手前             主郭手前左側石垣
御殿屋敷と手前土橋            御殿屋敷下郭
西側の長大な竪堀
西側の竪堀
西側山腹の郭