近江/ | 甲賀 公方屋敷 |
ファイルNo1065 |
足利義昭が一時期居住した場所
@ くぼうやしき |
道案内 | |
甲賀市(旧水口町)の国道307号線と県道4号線の交差点、庚申口の信号で県道4号線を旧甲賀町方面に進みます。庚申口の信号より約11Km先田堵野西の信号を県道4号線側の左に進まずに、JR草津線に沿って直進します。油日駅手前の油日農協前の信号で右折し、草津線を越えてすぐに二股を左手の県道61号線を進みます。善福寺手前200mの和田のバス停の左手が屋敷跡です。(善福寺を越えて次の薮内橋のバス停付近で斜め左折すると右手の田んぼの先の丘が和田城です。) |
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訪城備忘録 | |
県道からバス停左側を入り、民家を抜けた裏手の丘に登りましたが、ここにも郭跡・堀跡形状が残りますが屋敷跡は民家の右手の平坦地です。平坦地には庭園跡らしき箇所に説明板が立てられています。県道の右手奥(民家の裏山)は公方屋敷支城(未訪城)です。 |
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歴史 | |
永禄八年(1565年)、足利十三代将軍の義輝が三好,松永によって殺害された後、興福寺一乗院の門主覚慶(義輝の弟・後の義昭)は奈良を脱出し和田惟政を頼りこの屋敷に一時期居したと言われます。その後、野洲郡(現/守山市)矢島に移り、永禄九年(1566年)に足利義秋と名乗りました。同年、越前朝倉氏を頼り越前一乗谷に移りますが上洛を果たせませんでした。その後、永禄十一年(1568年)、織田信長によって室町幕府最後の将軍として上洛します。 |