近江/ | 信楽 小川城 |
ファイルNo0858 |
@ おがわじょう |
|
【道案内】←登城口 国道1号線で湖南市(旧甲西町)方面から来ると、西名阪という信号の50m先の信号で右折し甲賀水口中心部に入ります。県道549号線を進みすぐの本綾野の信号で右折して水口町市街地(現:甲賀市)を抜けます。近江鉄道を越えて600m先の内貴橋北の信号で右折し県道122号線(旧:国道307号線)に入ります。道なりに1.5Km先の三大寺北の信号で県道4号線と合流し進みます。庚申口の信号で右折し国道307号線に入ります。約13Km先(信楽駅入口の長野の信号を過ぎて400m先)の長野の信号で斜め左へ県道138号線に入ります。さらに700m先右折し、いったん国道422号線に入り、またすぐ左折し県道138号線に入ります2.5Km先の右手JAの先で左折する道があり、ここに小川鶴見城の案内板があります。ここを左折し、500mほど進んだ右手に案内板があり、林道入口があります。林道入口には城跡まで2Kmと表記されていますが、そんなに長い距離には感じません。 栗東市からですと、名神高速道栗東インタから県道55号を進み、2.4Km先の北の山の信号で右折し、県道12号線に入ります。14Km先(「道の駅こんぜの里りっとう」から6Km先)の信号で左折し、県道16号線に入ります。大戸川沿いを進み、8Km先の牧の信号で右折し、国道307号線に入ります。6Km先が県道138号線の分岐交差点の長野の信号です。 【訪城備忘録】 林道の終点のところに城址碑(城址標識)があり、その背後は中之城に続く切通状ですが堀切ですね。城跡は整備され、思った以上の規模と遺構に満足できます。まずは現在東屋がある南郭。ここは西側に大土塁があります。この南郭の北側にもうひとつ大土塁状のマウンドがあり、その北側が主要部です。主殿はU字に土塁が巡り、遠くから主殿を見ると半地下状に見えて印象的です。また、僅かですが、土塁の内側に石垣も見ることができ、また、礎石が残っており、ここには礎石の建物があったようです。この礎石建物は戦国期ではなく、江戸期のものの可能性もあるようです。主郭は主殿の東側の削平地が主郭です。南側に石垣痕跡もありました。さらに、北東側の谷を挟んだピークに出丸と思われる箇所も認められます。城跡よりは信楽中心部が見渡せ、眺望がとてもいいです。 <2006年10月再訪> 中の城から登ってみました。案内板には中の城と小川城の間は1.5Km(中の城と県道までは500m)と表記ありますが、ここもそんなに長い距離とは思えません。途中には小郭が二箇所、堀切が数箇所認められ、本城と支城の間の連絡道が完存してるという点で、この道はおもしろいです。 【歴史】 嘉元三年(1305年)に鶴見氏によって築城されたとの伝承がありますが定かではなく、<小川氏を経て>戦国時代には多羅尾氏の勢力下に入り、文禄四年(1595年)に豊臣秀次事件に連座し領地を没収されたため廃城となりました。現在の遺構は昭和五十三年から五十四年度にかけて実施して発掘調査によって出土遺物から16世紀後半に改修されたことが判明し、当時の城跡には前例のない構造の礎石建物跡が見つかっています。遺構から推測すると、この時期に多羅尾氏の元で北西方面に展開する「西之城」・「中之城」と共に大規模な改修を受け、一体になって機能していたことが考えられます。天正十年(1582年)の「本能寺の変」の際、徳川家康が三河へ逃げる途中の信楽で一夜を明かしたのは、本城であったとも伝えられています。多羅尾氏は秀次事件で連座しいったん没落しますが、家康公の伊賀越えの功績で江戸期に入りこの地で代官として取り立てられます。<現地案内板より> |
|
|
||
|
||