近江/ | 鎌刃城 |
ファイルNo0831 |
鎌の刃の如くの南尾根の7つの堀切、主郭の虎口石垣・主郭石垣、堀切・竪堀、戦国パーツがすべてある。
@ かまはじょう |
道案内 ←登り口 ←青龍の滝 【 】車道林道の入り口と城跡説明板の位置 |
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名神高速彦根インタを下り、原町の信号を右折して国道306号線に入り国道8号線に向かいます。外町の信号で右折し国道8号線に入り米原を目指します。7.5km先米原駅前を過ぎ、800m先を米原高校側へ右折します。≪または、名神高速米原インタから国道21号線を彦根方面に向かい、西円寺の信号で斜め左折し国道8号線に入り約800m先を左折します。≫ 県道240号線にて米原高校前を通過し、2.1Km先の番場の信号で右折し ≪あるいは米原インタから国道21号線に出て、次の樋口西の信号を左折し県道240号線に入り番場の信号を直進します。≫ 蓮華寺前を通過すると左手に鎌刃城の案内標識が出ます。少し進み、左折し名神高速道手前が広くなっています。高架下のガードのところから登ります。または、その奥の滝谷林道(車では無理)の登り口は、青龍の滝よりも城跡に行けます。 車で行く場合は、米原工業団地からアスファルト林道経由で城跡の上まで行き、細尾根を通って(300m)城跡に行きます。なお、自動車林道を通過される方は自己責任でお願いします。この城は麓から登るが正式ルートです。 |
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訪城備忘録 | |||
<2000年訪城> 麓より山道を歩いて40分、その名の通り鎌の刃のような尾根にあります。山道の途中でカモシカを見ました。浅井氏VS六角氏、浅井氏VS織田氏の攻防の城とされていますが謎も多い城です。山上の城跡は門跡、主郭部などが石垣で固められており見応え充分でした。遺構は織田期の遺構とされており、主郭は半地下状になっていていました。北郭にあったとされる大櫓は礎石が発見され、天守の原型とのことです。本格的な発掘調査中でした。南郭(青龍の滝側)の郭に説明板が設置してあり、その先の堀切斜面には石垣も残存します。西側斜面には石垣が各所に残存し、特に大石垣と呼ばれる石垣は40mほどの長さで残っています。 <2004年10月訪城> 東番場より徒歩で登りました。息を切らせながら登りますと北側の大堀切に出ます。この堀切は高さ9mほどあり大手を守る重要な防御になります。主要部は発掘調査が終了していますので、大手虎口・主郭虎口石段及び主郭外側の石垣などは一部復元され現在も見られますが、主郭内側の石垣や主郭北側斜面の石垣などは埋め戻し保存されたようです。西側支尾根に下りてみました。南郭の西側からおりますが、先端は南の郭より比高で100m近く下ります。トラロープが頼りです。急な尾根に大きな段差(切岸)の郭が続き、堀切には土橋も残ります。先端に近い南側斜面には畝状竪堀が存在します。近江で畝状竪堀は珍しいのですが明瞭でなかったので残念でした。 <2015年03月訪城> 麓から徒歩で滝谷林道を通って青龍の滝側から登りました。(この林道は普通の車では走行は無理です。) 林道から遠くに鎌刃城も見えます。 滝近くの登り口を少し登ると最初の堀切です。現在は切り通しのようで、斜面の道を進むと主郭と南郭の間の郭に到達しますが、鎌の刃のような尾根を進むと7つの堀切を越えると南郭に至ります。前の訪城時より間伐されたり、模擬の見張り台なんかが作られされに見やすくなってました。西下支尾根の郭群、前はそんなにきついと思わなかったんですが、急斜面に切岸が高く、登り降りにはしんどいです。 尾根上の郭には模擬見張り台が作られ、また、幾分間伐され、眺望がよくなってました。 <2016年11月訪城> 工業団地側の林道で城域の上まで車で登れます。林道入り口から約6kmほど進んだ林道沿い右手に鎌刃城の説明板が設置してあり、そこから細尾根を下りて行くと300mほどで最初の堀切に至ります。西下支尾根の畝状竪堀、4条の内2条は綺麗に見る事ができました。国史跡になり、主郭に新しい城址碑の石碑が建てられていました。 <2017年10月訪城> 夕方の訪城でした。もう10月の中旬では17時頃には暗くなります。雨上がりの雲がとってもきれいで夕焼けまで見られました。(下段に写真) <2020年03月訪城> 林道が復旧しているとの情報で、城友を案内してひさしぶりに訪城しました。西の郭群も含め全域廻ってきました。 |
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鎌倉時代箕浦庄(現:近江町〜米原市)の地頭であった土肥氏によって最初に築かれたと考えらています。この城は軍事用の砦程度であったようです。室町期に入り、文明四年(1472年)に京極氏方の堀氏が守備する鎌刃城を六角氏方の今井氏が攻めたと言う記録があるようであり、この頃には本格的な山城であったと考えられます。堀氏は元亀元年(1570年)<浅井氏が織田氏に敵対し、姉川の合戦があった年>に同族の樋口氏とともに浅井氏より織田氏に従い、元亀二年(1571年)に堀氏が守る鎌刃城を浅井氏が攻め、横山城の木下藤吉郎秀吉(豊臣秀吉)が援軍として駆けつけ浅井氏を撃退したという記録(信長公記)があるそうです。現在残る遺構は織田氏帰属時期の元亀年間(1570〜74年)の間に改修された遺構と考えられます。 <現地案内板より> |
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城跡からの風景 |
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