道案内 →北郭 ←登り口の道 |
金沢から来ると「のと里山海道(能越自動車道)」の横田インターを下り、右手に進みます。約1.4km先の横田の信号を左折し県道23号線に入ります。(信号の先は「能登中島祭り会館」です) 約1.8km先の十字路(上町バス停そば)を右折し100m先左手が熊木公民館です。十字路を左手に曲がり、すぐに橋を渡ると左手に数軒の集落でその入り口に城跡の説明板があります。家と家の間を抜けると左手方向の山裾に熊木城の登りの案内があります。
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訪城備忘録 |
麓の登り口から山に入ります。少し上ると南郭への道(きゅう坂道)と北郭への道(だんだら道)の分岐点があります。だんだら道を進みます。夏場で草は伸びてますが道はしっかりしてました。道は北郭の北側端に至ります。ここに堀切とそれにかかる土橋があります。ここを過ぎると道の右手の緩斜面には畝状竪堀があります。これは上杉氏の城になった時の改修なんでしょう。北郭下にまた堀と土橋があり、坂虎口を登ると北郭主郭です。一部低い土塁があります。北郭の南側の一段下に腰郭がありますが、東側に空堀が二重になっていて変形の馬出と言われるようです。私にはよくわからんという印象です。南へわりと平坦な尾根を進むと高い切岸が見えてきます。南郭の北側切岸です。なかなか高い切岸です。切岸直下は空堀状になってます。南郭主郭は周囲を低い土塁が巡り南側に平虎口があります。南側に下りると往時は空堀か副郭になっていたと思われます。さらに、主郭とは反対側土塁の斜面に石積みの痕跡が残ります。この南側に舌状に郭がありますが、やや藪で見にくいです。主郭東側から見る切岸もけっこう高いです。東側から斜面の道を下りていくと、さきほどの分岐点に至ります。 一城別郭のような縄張りで、小さいながら面白い、上杉氏の色合いが濃い城跡でした。
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案内標識
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築城時期、築城者は定かではないようです。一説には鎌倉期初期、長谷部信連(長氏の祖)が居城として築城したとされ、その後、穴水城に移ったとされます。あるいは、南北朝期に熊木左近将監が居城したともされます。戦国期は七尾城の支城であったものですが、天正四年(1576年)、上杉謙信の七尾城攻めの際に上杉氏に攻められ落城したとされます。その後、上杉氏の城将が入りました。翌天正五年(1577年)、一時この城は畠山氏勢が奪還しますが、謙信が再攻し七尾城とともに落城しました。その後は、上杉氏方の城として存続したようですが、天正六年(1578年)に謙信が急死した後、上杉氏の能登支配は衰退し、織田氏が侵攻、天正九年(1581年)には能登は織田氏の支配となり前田利家が入ります。この頃には熊木城も廃城になったのではないかと思われます。
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