能登/ 石動山城



ファイルNo1541

山頂部の広範囲に坊跡の石垣が累々と残る。七尾城攻めの上杉謙信の本陣となった場所

                         主郭   

@ せきどうざんじょう 
  別名 

A住所:鹿島郡中能登町石動山 
    旧:鹿島郡鹿島町

B目標地点:石動山・石動山資料館 
C形式:山城  D比高:大宮坊より30m 
E現況:山林

F遺構等:(城部分)郭・堀・堀切・標識 
G時代/人物:戦国期/上杉氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  大宮坊より10分

J撮影・訪問時期:2006年08月・2018年06月

  

【道案内】

羽咋市から七尾市に向かって国道159号線を進みますと二宮バス停前で右折し(黒氏の信号付近で右折) 900m先で県道244号線を横切り、その先林道を7Km進みます。比高で500mほど登ります。(あるいは、富山県氷見市国道160号線(氷見市中心部を過ぎます)の阿尾の信号左折し県道18号線を約13Km進みます。富山と石川の県境の荒山峠を越え、下りになって3.5Km先で右折し県道244号線に入り、800m先を右折し林道に入ります。)

 



【訪城備忘録】

石動は富山県では小矢部市石動を「いするぎ」と呼びますが、ここでは「せきどう」と普通はよびます。(「いするぎ」という言い方もあるようですが) ここ石動山は「動宇石」が天から落ち山が動いた事から名づけられたものですが、動宇石は隕石ではなく安山岩とのことです。石動山城は大宮坊の背後の峰にありますが、複雑な縄張りという感じの城ではなく砦程度の感じです。主郭東側下に堀の感じがありました。さらに展望台への道に堀切と思われる箇所が残ります。この山道は今は整備され幅がありますが、往時は軍道やったんでしょうかね。 石動山天平寺側は整備もされ、資料館も有、江戸期の伽藍跡とは言え、山の広範囲に寺坊跡があり、その石垣がいたるところで見られます。大宮坊はその中心で門や建物の一部が復元されています。


【歴史】

養老年間(717〜723年)に智徳上人あるいは泰澄が開いたと伝わります。鎌倉時代には山岳修行の場となりました。戦国時代に入り天正四年(1577年)に上杉謙信が七尾城の畠山氏攻略のため石動山城を築いたとされます。天正五年(1578年)謙信死去後は織田氏の勢力化にありましたが、天正十年(1582年)に信長死後に石動山宗徒は上杉氏・畠山氏旧臣に加担したため、前田利家は柴田勝家・佐久間信盛の助勢を受け石動山を攻撃し伽藍も焼き討ちしました。翌年に石動山天平寺は再建が始まり、江戸期は前田氏の保護の下、56の寺坊がありましたが、明治維新以後衰退し廃寺となったものです。


  
  
江戸期現存寺坊
  
  

近くの城・関連の城: 荒山砦

          

現地説明板より
主郭登り口と堀
主郭と低い土塁?
標識        堀
堀切
堀切を横から        古道
  
 動宇石         大宮坊書院(復元)
   東林院石垣                     梅宮石垣  
大宮坊門(復元)
大宮坊書院(復元)
阿弥陀院
心王院         宝珠院