加賀/ 御幸塚城



ファイルNo1307
                            櫓台(土塁)?

@ みゆきづかじょう 
  別名 今江城

A住所:小松市今江町 
B目標地点:今江小学校・城山公園 
C形式:丘城  D比高:10m 
E現況:小学校・公園・宅地・田畑 

F遺構等:郭?・土塁・碑 
G時代/人物:室町期/富樫氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  2分

J撮影・訪問時期:2006年03月

  
城址碑

【道案内】 

北陸自動車道小松インタを下り、国道305号線(旧国道8号線)に出たら右折です。5Km先の今江の信号を右折し北陸本線のガードをくぐり、今江中の信号で右折し400m先の今江春日神社の角を左折、250m先の路地を右折し200m先が城山公園です。
(今江小学校の南側です。)


【現況・訪城記録】

今江小学校一帯が廻りより小高い位置にあり、小学校のグランドに隣接する城山公園はさらに小高い丘でそこに「今江城」と刻まれた城址碑があります。城址碑のあるところは一段高く櫓台土塁のも見えます。公園広場は郭跡でしょうが整備されて城跡としてはよくわかりません。

【歴史】

御幸塚城は今江城とも呼ばれますが、築城については定かではありません。文安三年(1446年)に富樫泰高・教家の兄弟が加賀守護職をめぐって争った際に、室町幕府は加賀国を二分して北二郡を教家の子成春に、南二郡を泰高に与えて、それぞれ半国守護職としました。その時に泰高はその居館として築城したともされます。のちに、泰高は政親(成春の子)と対立して、本願寺と手を結んで高尾城攻略の一向一揆方の総大将格として、政親を自害に追い込んだとされます。この時期は少なくとも御幸塚城は一向一揆の城として機能していたと考えられます。天正四年(1576年)には一向一揆方の将で内田(山内)四郎左衛門や林七介(助)らがこの城に在城し、大聖寺城の織田信長方の戸次広正を攻撃ましたが、信長は広正に代えて佐久間盛政を大聖寺城の守将としています。盛政は、徳山則秀とともに御幸塚城を攻め落城したとされます。慶長五年(1600年)の関ヶ原合戦の際には、前田利家が加賀の西軍勢力を鎮圧するために、山崎長徳・奥村栄明・太田長知らをこの城に在城させています。江戸期に入り廃城となり、加賀藩の収納蔵や作倉蔵として利用されました。


  
  
     
  

近くの城・関連の城:大聖寺城 高尾城

            

王院館の碑
花山法皇(冷泉天皇第一皇子)にまつわる伝説(花山伝説)の地であり、花山天皇退位させられ、花山寺に入って出家し法皇になり 法皇は今江に行幸され三年過ごされました。この時の行宮の御庵室が、この城跡と重なっていて、近くに王院館遺跡の碑があります。