加賀 | 大聖寺城 |
ファイルNo1160 |
① だいしょうじじょう |
道案内 | |||
北陸高速道加賀インタを下り、熊坂の信号で左折し国道8号線に入ります、3Km先の曾宇町の信号で左折し県道142号線に入ります。800m先(JR北陸線を越えて)で左折し国道305号線に入ります、800m先の信号で右折し250m先の錦城小学校手前で左折します。突き当りが錦城山です。右手麓が近世大聖寺城で、その先200mの右手が長流亭です。錦城山一帯が城跡です。錦城小学校裏手に錦城山公園の駐車場があり、ここから登ります。 |
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訪城備忘録 | |||
以前は、麓よりただなんとなく登って行ったら本丸(主郭)についてしまったという印象しかなかったです。公園化はされ、本丸(主郭)は一応整備されていましたが、それ以外は薮という印象しかありませんでした。城跡としての整備はされていない印象でした。しかし、整備されたとの情報があり再訪しました。説明板からすると令和元年(2019年)12月までに整備されたようです。 城跡は本丸(主郭)を中心に東側の東丸から本丸(主郭)の南側の鐘が丸までの郭群、本丸(主郭)西側に西丸と馬洗池、北側に二の丸と三の丸(北の丸)が続き、三の丸の北東尾根に段郭と先端に戸次丸があり、中央の谷間には対面所がありという構造です。本丸(主郭)と鐘が丸の間の自然地形を加工した空堀、同様に、本丸(主郭)と西丸の間の堀切は深いです。鐘の丸と主郭には大規模な土塁があり、本丸(主郭)の櫓台の斜面には石垣の痕跡があります。東丸、本丸(主郭)下の郭にも土塁があります。二の丸から北東尾根先端の戸次丸の切岸とそのそばの尾根から落ちる竪堀が印象的でした。坂土塁の標識がありますが、ありえますが少し無理があるかな。本丸(主郭)下の郭に馬出郭とされてますが、どうでしょうか。比高としては低いですが斜面は急であり、郭も大きく、戦国末期から江戸初期の城郭が残ります。2023年12月、城跡には登らず陣屋時代お名残りを求めて旧城下町を歩きました。陣屋跡は現在は小学校、及び、江沼神社となっており、江沼神社には長流亭と呼ばれる建物と大名庭園が残ります。 |
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築城年代は不明ですが鎌倉期には築城されていたようです。建武二年(1335年)には鎌倉北条方残党の名越氏を狩野一門の土豪である敷地氏、上木氏、山岸氏などがこの城で迎え撃ったとされます。また、建武四年(1337年)には、畑六郎左衛門尉時能は敷地伊豆守、上木平九郎、山岸新九郎とともに大聖寺城に立て籠もる津葉五郎清文を攻め落としたとされますが、この大聖寺城は西側の津葉城であるようです。その後については不明ですが、戦国期に入り一向一揆方の城となっていたようです。弘治元年(1555年)に朝倉宗滴が加賀侵攻し、城は落ちたようです。永禄十年(1567年)には朝倉義景と一向一揆の和議が成立し、一向衆は松山城を廃し、朝倉方は大聖寺城・黒谷城・日谷城を放棄し焼き払ったとされます。天正三年(1575年)に織田信長の加賀侵攻開始の際、大聖寺城・日谷城を修復し戸次(別喜)右近広正<梁田左衛門太郎広正>を二城の主将にしたとされます。天正八年(1580年)には柴田勝家の家臣の拝郷五左衛門が城主となり、天正十一年(1583年)には豊臣秀吉の命で溝口金右衛門秀勝が城主となります。この頃に現在の姿に改修されたようです。慶長二年(1597年)に溝口氏は越後新発田に転封し、山口玄蕃允宗永が6万石で入りました。慶長五年(1600年)に山口氏は西軍に与したため、東軍の前田利長に攻められ落城しました。以後、元和元年(1615年)まで金沢城前田氏の支城として城代が置かれましたが、一国一城令で廃城になりました。寛永十六年(1639年)には加賀藩三代前田利常の子の利治に分与され七万石の大聖寺藩が立藩されました。藩邸は麓に置かれ城山は江戸期は立ち入り禁止になっていたようです。 <長流亭> 大聖寺藩三代藩主前田利直が宝永六年(1709年)に休息所として建てたものです。 |
大聖寺城・北陸の関ケ原 山口宗永は山城国(宇治田原山口城)で天文一四年(1545)に山口甚介<秀景?長政?>の子として生まれたとされます。豊臣秀吉に仕えていましたが、慶長二年(1597)、小早川秀秋の付け家老となりました。翌年、朝鮮の慶長の役で失態があったとして秀秋は筑前名島三十万石から越前北ノ庄十五万石に大減封での転封が言い渡されました。その際、先行して、山口宗永は大聖寺城に入りました。しかし、同年に秀吉が死去し秀秋の転封は無くなくなりましたが、宗永は秀秋と折り合いが悪かった事とも伝わりますが、筑前には戻らずに、そのまま大聖寺城に留まり、六万石の独立大名となりました。慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの前、東西手切れになった際に、敦賀の大谷刑部吉継は石田三成との関係で西軍となり、越前、加賀の多くの大名は西軍に加担しました。七月二六日、東軍についた前田利長は金沢城を出陣、軍勢は二万五千と言われます。西軍に付いた小松城の丹羽長重(丹羽長秀の子、十二万石)を攻めると思われたが、小松城を迂回し八月一日に加賀の松山城に布陣し、大聖寺城を攻撃する体制を作りました。宗永の手勢はわずか五百、北ノ庄城の青木一矩、小松城の丹羽長重に救援を要請しましたが間に合わず、二日より城攻めが始まりました。玄蕃頭宗永の嫡男の右京亮修弘は城外に伏兵を置き、攻める前田軍の山崎長徳(長鏡)と交戦しよく戦いましたが、鉄砲隊に攻められ城内に退却しました。さらに攻城戦は続き、宗永は降伏の意思を表しましたが、利長はこれを許さなかったとされます。翌三日、大手から攻めるのに苦労したため、利長の弟の利政は鐘の丸背後の谷から攻め上がったとされます。ここが最大の激戦となり、戦後城兵の遺体が骨になるまでこの谷に放置されたためこの谷は骨が谷と呼ばれます。修弘は果敢に抵抗しましたが力尽き、山崎長徳の家臣木崎長左衛門を呼び「功名にせよ」と言って首をあずけました。宗永も自刀して果て大聖寺城の戦いは終わりました。<宗永の首塚は市内大聖寺新町の福田橋のそばに説明碑とともにあり、修弘の首塚は全昌寺にあるそうです。> 宗永の嫡男修弘は宗永とともに大聖寺城で戦死しましたが、次男の弘定は豊臣秀頼に仕え、木村重成の妹を正室に迎えていたため、大坂の陣では木村重成に属し、若江の戦いで井伊直考隊に討ち取られました。山口氏は「弘」を通字で使用するが、これは山口大内氏の流れかとも言われるようです。宗永も正弘とも伝わるらしいです。長男、次男は討死しましたが、まだ逃れた子がいたのか、娘の子か、あるいは、修弘の子がいたようで、一族の内、子孫は松江藩松平氏の家臣となりました。 松江藩士山口家からは太平洋戦争のミッドウェイ海戦で空母飛龍とともに戦死した海軍中将の山口多聞が出ています。 ⦅余談⦆:山口甚介は多羅尾光俊の子の光広を養子としていたとされます。この縁で山口氏と多羅尾氏は密な関係であったようです。天正十年(1582年)の本能寺の変に際し、徳川家康の伊賀越えでは、まずは、山口氏の山口城で休息し、山口氏は多羅尾氏に連絡し、家康一行は多羅尾氏の小川城(滋賀県信楽)で一泊した後に伊賀越えをしたと伝わります。 光広の子の光正は宗永の娘を娶り、子は旗本として存続したようです。 |
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