加賀 大聖寺城



ファイルNo1160


                                 主郭

@ だいしょうじじょう 
  別名 錦城

A住所:加賀市大聖寺 
B目標地点: 錦城山
C形式:山城  D比高:50m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・堀・碑・説明板 
G時代/人物:鎌倉期/狩野氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓より10分

J撮影・訪問時期:2000年04月・2006年02月

  
鐘の丸方向遠望

【道案内】 

北陸高速道加賀インタを下り、熊坂の信号で左折し国道8号線に入ります、3Km先の曾宇町の信号で左折し県道142号線に入ります。800m先(JR北陸線を越えて)で左折し国道305号線に入ります、800m先の信号で右折し250m先の錦城小学校手前で左折します。突き当りが錦城山です。右手麓が近世大聖寺城で、その先200mの右手が長流亭です。錦城山一帯が中世大聖寺城です。



【現況・訪城記録】

麓よりただなんとなく登って行ったら主郭についてしまったという印象しかないんです。主郭は一応整備されていましたが、それ以外は薮という印象しかありません。城は本丸を中心に北の丸・二の丸・西の丸・鐘ケ丸・東丸の大きな郭を持ち、東丸西側には二重の土塁、鐘ケ丸の西と南側には高さ3〜4mの土塁が残存、西の丸・二の丸・本丸に囲まれた谷には馬洗い池も残るようですがまったく見ていない・^^;; 
2006年夕刻に訪城しましたが、暗くなって来た為登りませんでした。

【歴史】

築城年代は不明ですが鎌倉期には築城されていたようです。建武二年(1335年)には鎌倉北条方残党の名越氏を狩野一門の土豪である敷地氏、上木氏、山岸氏などがこの城で迎え撃ったとされます。その後については不明ですが、戦国期に入り一向一揆方の城となっていたようです。弘治元年(1555年)に朝倉宗滴が加賀侵攻し、城は落ちたようです。永禄十年(1567年)には朝倉義景と一向一揆の和議が成立し、一向衆は松山城を廃し、朝倉方は大聖寺城・黒谷城・日谷城を放棄し焼き払ったとされます。天正三年(1575年)に織田信長の加賀侵攻開始の際、大聖寺城・日谷城を修復し戸次(別喜)右近広正<梁田左衛門太郎広正>を二城の主将にしたとされます。天正八年(1580年)には柴田勝家の家臣の拝郷五左衛門が城主となり、天正十一年(1583年)には豊臣秀吉の命で溝口金右衛門秀勝が城主となります。慶長二年(1597年)に溝口氏は越後新発田に転封し、山口玄蕃允宗永が城主となります。慶長五年(1600年)に山口氏は西軍に与したため、東軍の前田利長に攻められ落城しました。以後、元和元年(1615年)まで金沢城前田氏の支城として城代が置かれましたが、一国一城令で廃城になりました。寛永十六年(1639年)には加賀藩三代前田利常の子の利治に分与され七万石の大聖寺藩が立藩されました。藩邸は麓に置かれ城山は江戸期は立ち入り禁止になっていたようです。

<長流亭> 大聖寺藩三代藩主前田利直が宝永六年(1709年)に休息所として建てたものです。
  
西の丸方向遠望
  
長流亭
     
  

近くの城・関連の城: 小松城 金沢城

            

現地案内板より