加賀/ 松山城



ファイルNo1289

主郭東側に堀を食い違いに配し、スロープ状の城道・土橋の遺構が残る、けっこう面白い遺構のある城跡

                        主郭東側直下の堀と土橋

@ まつやまじょう 
  別名 

A住所: 加賀市松山町
B目標地点:国道8号線松山、松山集落背後 
C形式:平山城  D比高:45m 
E現況:山林 

F遺構等:郭・土塁・土橋・堀・堀切 
G時代/人物:戦国期/徳山氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  出丸下から10分

J撮影・訪問時期:2006年02月・03月

  
主郭

【道案内】 ←登り口

北陸高速道加賀インタを下り、熊坂の信号で左折し国道8号線に入ります、8Km先の松山の信号を右折します。<片山津インタから片山津温泉を経由してJRいぶりばし<動橋>駅前から県道39号線で国道8号線にも出られます> 右折し県道39号線を500mほど過ぎると、新道は直進、旧道は松山集落へと左折Sカーブになりますので、ここで集落側に左折します。集落内を300mほど進むと集落が終わる少し手前で左折する路地がありますので左折します。<松山の信号から来ると見えませんが、この左折する角に手書きの松山城址の案内があります> 路地を100mほど進むと右折の道がありますが、車は入れません。この右折した細い道の先から城跡登城道があります。車はそのまま進むと墓地に突き当たります。駐車スペースが数台分ありますので、お邪魔にならなければここに駐車させていただいて城跡に向かいます。



【現況・訪城記録】

2月に行ったときは夕刻であったため、主郭まで行けずで、3月にリベンジしました。集落の南側端(城域の西端)の登城口にある見張台跡から入ります。見張り台は城域西端に砲台状にあり、主郭方面に続く東側には土塁、空堀、堀底道など確認できます。主郭までは地元の方の手作り整備でしょうか?、手書きの案内板、斜面にはロープが張ってあり、また、矢印案内もあり、見学しやすくなっていました。見張り台より進むと、主郭下の大きな空堀に至ります。土橋を越えて登ると主郭です。山頂を主郭として、一段下に二の郭に相当する郭が主郭周囲を巡っています。さらに北・東・西に大規模な空堀が巡っていて、その先の北側尾根には段郭を配しています。整備された道はこの北側段郭に降りていくようになっていますが、この城の最大の見所は東側です。東側には別城的な郭群があり、これと主郭との連絡路が食い違いの空堀を配し、土橋を二つ越えて真ん中にスロープ状の土塁を逆S字に進むような構造になっています。第二土橋から主郭を見上げると10m以上の落差があり圧巻です。また、東側の別郭は広いですが削平は不十分です。しかしながら、L字の土塁が明瞭に残ります。さらに主郭西側空堀を進むと大手筋になるのでしょうか?、堀底道のような土塁空堀が麓に向かって北側へ延びていました。過去に畑地になったりして若干改変されたところはありそうですし、堀底道もその当時のものかもしれませんが主郭周囲の空堀、主郭東側の特異な構造は一見の価値があり、充分に楽しめました。

【歴史】

城の初見としては天文二十四年(1555年)朝倉宗滴軍の加賀侵攻に際し、一揆方の砦のような役割があったようです。その後永禄十年(1567年)にも一揆方拠点としての記録があるようです。その後、佐久間盛政の家臣の徳山則秀(五兵衛)が天正年間初期に改修・築城したと伝えられます。天正四年(1576年)に織田信長の命で一向一揆攻略のため佐久間氏が加賀に侵攻した際、徳山氏も従っています。その後、徳山氏は松任城に移りますが、天正八年(1580年)に一揆方の坪坂新五郎、徳田小次郎らがこの城に拠ったため、柴田勝家方に攻められ落城したとされます。 さらに慶長五年(1600年)に前田利長がこの城に本陣を置き、大聖寺城攻めを行ったとされます。

  
主郭北側下の空堀
  
主郭方面遠景
     
  

近くの城・関連の城:勅使館

            

主郭東側直下のスロープ土塁と堀
主郭東側下の第二の土橋(上からと横から)
主郭と別郭を隔てる大空堀       主郭東側の別郭の土塁
   主郭を東側より         主郭西側下空堀と土橋
主郭西側大手筋?土塁と堀(堀底道?)
見張り台(出丸)と馬場
見張り台東側下の堀