道案内 |
国道41号線で犬山市内から可児市へと進んだ場合、犬山市五郎丸の陸橋のところから国道41号線をさらに10Km先の右手が名城大学です。虹が丘(大学入口)の信号から1.4Km先の大脇の信号を右折して県道361号に入ります。200m程行くと道がT字でここを右折します。200m行った道路左手で集会所の横に城址碑や説明板があります。この説明板背後の山の尾根に城跡があります。説明板がある箇所に駐車場もあります。
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訪城備忘録 |
駐車場より奥に歩いて行くと山の説明板があり、ここより登ります。一応ハイキングコースにはなっており、案内標識も立っていますが、道は荒れており、鎖を設置してある急坂もあります。主郭のある尾根先端の峰まで登り、尾根先端が主郭です。ここも荒れていますが、なんとなく郭跡の雰囲気はあります。尾根先端下が北の郭にあたり、この斜面に石垣と思われる石積みがありました。城は、この峰から東側に4つの峰に郭を配し、郭間は堀切で処理されているようですが草木が茂り堀切は確認しにくい状態でした。
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現地案内板より
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現地案内板には「城の築城は明応年間(1492年)〜文亀年間(1501年)の間と推定されます。鎌倉時代の功臣、近江の佐々木義詮の系統の山内秀久が土田に移り土田氏を名乗りました。丹羽郡小祈の土豪、生駒家広の娘を妻とし、長子泰久出家後、家広と秀久は不仲となり、妻を離別、家広宅で出生したのが次子政久です。成人した政久は主君(岩倉城主織田伊勢守信安)に仕え、信安の密命を受け土田に帰り、岩山に築城し以来生駒氏を名乗りました。」とあります。城は文明年間(1489〜87年)に土田氏が築城したともされ、以後、秀久・泰久・政久と続きます。政久の二男、甚助は丹羽郡小折城主の生駒家に養子となり生駒親重と改めます。甚助の二男、土田源太夫は弘治二年(1556年)に明智長山城において討死して土田氏宗家は断絶しました。その後、親重・子の親正が土田城を継ぎ、天正二年(1574年)に退去し、土田城は金山城の森氏の支城となりました。生駒親正は織田信長、豊臣秀吉に使え、最終的には讃岐17万石となります。織田信長の母親の土田御前は政久の娘とされます。
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