美濃 / 美濃大洞



ファイルNo0449


               主郭下櫓台石垣

@ おおほらじょう 
  別名 
一柳城(ひとつやなぎ)・津保城

A住所:関市富之保一柳
   旧:武儀郡武儀町

B目標地点:稲荷神社
C形式:山城  D比高:120m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・竪堀・堀切・説明板
G時代/人物: 戦国期/稲葉氏?
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  麓一柳神社から15分


J撮影・訪問時期:
2004年01月・2019年12月

  

道案内 

東海環状自動車道の富加関インタを下り、県道58号線を北上します。7Km先の県道80号線との交差点信号を過ぎさらに4Km先の武儀中学・旧武儀町役場手前(現市役所事務所)で左折し県道63号線に入ります。2.4Km先で県道が大きく左にカーブしそこに一柳のバス停がありますが、このカーブの手前に左に入る細い道があります。ここを左折し奥の神社まで行きます。ここの裏手より城跡に登ります。
 
訪城備忘録

神社裏手より山道りますと途中から竪堀の感じのところを登ります。尾根まで到達すると左側に崩落が激しいですが石垣作りの外枡形の虎口がありますので登ってきた道は往時から登城道のようです。左手に登ると広い郭がありますが雑木林で倒木も多く満足には動けません。右手に向かうと土橋状(登城道の反対側は少し位置ずれし竪堀があります)空間を越え、主郭下を回り込むようにして通路があります。この土橋状の先に幅5mで高さ2mほどの石垣に囲まれた「[」」状の空間があります。櫓台のようですが、主郭下にありますので、竪堀状の登城道を監視する施設であるようです。通路を進むと左側が主郭の虎口となります。この虎口も石垣が残存しています。主郭は40m*15mほどのやや細長いものです。主郭下の石垣に比べなんとなく単純です。なお、登り口の神社付近は居館跡と推測されます。城は小型ですが、最初の虎口(枡形)、すぐの土橋そして櫓台石垣という縄張りは山上主要部の防御を感じるおもしろい構造でした。

2019年12月再訪しました。 尾根手前で大石が散乱してます。前回訪城の際の虎口と思ったところですが石垣が崩壊して無くなってる?感じです。尾根すぐの土橋風も草木が多くてわかりにくいです。尾根まで登った左手の郭は伐採され広々とした空間になってました。その先の堀切は草木で見にくい状態でした。右手へ進むと最初に石積み櫓の石垣があります。二面はいい状態で残ってます。鏡石のような大石、縦隅石と思わせる長石があります。そのまま進むと主郭下の虎口です。石垣が下の通路、主郭下に残ります。主郭の反対側尾根に降りると堀切があります。最初の堀切よりは見ごたえがあります。

県道沿い入口標識
歴史

築城年代・築城者は不明です。城跡の説明板(加筆)には、源平の戦い後に甲斐国から大和守昌知が大洞城を築いたとされます。あるいは、明応年間(1492〜1501年)に、土岐氏の家臣の宇佐見丹波守弘房が築城したともされます。織田信長が美濃に進出後 (岐阜の斎藤氏を滅ぼし岐阜城に入るのは永禄
十年(1567年))、郡上の遠藤慶隆に備えるため、信長は羽柴秀吉に改修を命じ、秀吉家臣の一柳(伊豆守)直末が改修し、大洞城は一柳城と改称したとされます。その後、永禄八年から十年(1567年)頃、この地は加治田城の斎藤(信五)利治の領地となり加治田城の支城となりました。天正十六年(1588年)、豊臣秀吉は遠藤慶隆を減封転封し、稲葉貞通を郡上八幡城に入れました。その際、稲葉貞通の子の典通が在城したとする史料もあるとの事ですが定かではありません。ただ、遺構は稲葉氏の支配化時代のものと考えられます。関ケ原の戦い後、稲葉氏は豊後臼杵に転封され、遠藤慶隆が郡上八幡城に復帰しました。大洞城(一柳城)は元和の一国一城令で廃城になったようです。


櫓石垣(西面)
櫓石垣縦石垣(東南隅面)
主郭南下通路石垣
主郭下石垣と虎口郭
主郭下石垣
主郭北下尾根堀切
虎口石垣     2004年     櫓石垣
西郭からの眺望
北尾根堀切横からの眺望
 
麓登り口    麓の神社
竪堀のような登り道
尾根手前虎口状と散乱する石垣
  西郭        西郭から主要部を見る
鏡石状    櫓石垣    縦隅石
櫓石垣縦隅石
主郭下石垣
主郭下通路石垣
主郭下石垣    主郭
主郭から虎口スロープを見る
主郭下通路と主郭を見る
通路石垣
2004年訪城

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