美濃 / 加治田城



ファイルNo0448


     主郭

@ かじたじょう 
  別名  −−−−−

A住所:加茂郡富加町加治田
B目標地点:清水寺
C形式:山城  D比高:170m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石積み・堀・説明板
G時代/人物: 戦国期/佐藤氏
H満足度: 凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  清水寺の上の道より20分

J撮影・訪問時期:2004年01月

  

道案内  

東海環状道の美濃加茂インタを下り、国道418号線を西に進みます。5km先、下羽生の信号で右折し県道346号線を進みます。1.5kmで左手が富加町役場で、その先タウンホーリ前の信号で右折し県道97号線に入ります。さらに600mほどの地点で左折し絹丸橋で川浦川を渡ります。渡ったら右折し<800m先の加冶田郵便局を越えます>て1.2Km先の左手清水寺への道に入ります。清水寺二天門前からまだ上に登れますので登りますと未舗装の道が少し続き終着地点で少し広くなっています。ここより山道を進みます。
 
訪城備忘録
石積み痕跡

山道を進みますと、途中沼地のような箇所で結構広い平坦地に至ります。ここに加冶田城近道という標識があります。迷わずここを進みます。(笑) 尾根まで登ると再度標識がありますので、それに従い尾根を進みます。主郭は長細い楕円形で土塁も無く雑木林という感じて、ただ、りっぱな説明板が設置してあります。主郭南側に帯郭、東側に段郭が続きますが、主郭虎口より東側に伸びるスロープ状の付近に石列が並んでいます。石垣の基壇部のようです。


清水寺二天門
歴史

永禄年間(1558〜1570年)頃、稲葉山城主斎藤龍興に属していた佐藤紀伊守忠能・右近衛門父子が築城したと考えられます。佐藤氏は関城の長井隼人正道利、堂洞城の岸勘解由新周とともに反信長の盟約を交わしていましたが、永禄八年(1565年)に大沢基康の鵜沼城、多治見修理の猿啄城が信長に落とされ、佐藤氏は斎藤氏に離反し織田信長に属し、信長方とともに堂洞城を攻めて落城させ、そして、関城も落としました。その後、信長の命により佐藤紀伊守は斉藤(信五・信五郎)利治<斎藤道三の未子と言われる>を養子とし加冶田城主としました。永禄十年(1567年)に佐藤紀伊守は仏門に入り、斉藤利治は天正十年(1582年)に本能寺の変で信長とともに戦死すると、加冶田城は斉藤玄蕃が守りますが、金山城主森長可の領地となり廃城となりました。


  

近くの城・関連の城:堂洞城