西三河 岡崎城



ファイルNo0210


       本丸西側下板谷郭からの復興天守                 

@ おかざきじょう 
  別名 竜城・竜ケ城

A住所:岡崎市康生町 
B目標地点:岡崎公園 
C形式:平城  D比高:−−m 
E現況:岡崎公園 

F遺構等:堀・土塁・石垣・復元天守・説明板
G時代/人物:室町期/西郷氏
H満足度:
凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  岡崎公園乗用車駐車場から10分


J撮影・訪問時期:2002年04月・2006年05月
          2022年08月

  

道案内   ←菅生郭横駐車場

矢作川の東側方向(伊賀川の東側)、乙川の北側で、国道1号線沿いの岡崎公園が城跡です。駐車場は七間門前東郭と菅生郭(すごうくるわ)横に広い駐車場があります。桜の季節は乙川沿いは桜並木ですので車でその道に突っ込むと身動きとれなくなる恐れがあります。

訪城備忘録

城跡は南に乙川(菅生川)、西に伊賀川の合流点にあり、さらに西側には矢作川が流れていて、川が堀代わりになっています。中核部(本丸)の南には内堀となる水堀があり、龍城堀と呼ばれています。本丸と持仏堂郭の北側にはそれぞれ深い空堀が残り、二重になっています。本丸下の空堀は清海堀と呼ばれており、これは二代の西郷頼嗣(よりつぐ)が清海入道と号したことに由来するそうです。深くて円弧を描いた空堀は綺麗で、本丸側は土の切岸のままですが、持仏堂郭側は石垣になってます。その西端近くは廊下橋と呼ばれ本丸天守下に行ける橋です。明治に改修され石橋になってますが、廊下橋の先の天守台石垣には大きな鏡石を見ることができます。岡崎城は廃城前の資料が少ないようです。平成二十年前後になって改めて発掘調査が続いていた感じです。2006年の訪城時見てなかったものもある感じですが、しっかり見てなかったという方が正しいかな・・・。 建物として、城内には天守、七間門、東郭隅櫓が再建されています。菅生川端石垣は平成二七年(2015年)に工事の際に発見され、令和三年(2021年)に整備が完了しています。乙川沿いに約400mほど検出され、日本一の長さの城壁石垣と言われるようです。

本丸の空堀は近世の城というより中世の城っぽさが残ります。徳川家康天下取り発進の城ではありますが、その歴史より、中心部しか残っていないんですが、こじんまりとした小藩の城という風景はそれはそれでいいです。ただ、本丸周囲の空堀の印象が強くて自分が感じていた以上に石垣が残っててやっぱり近世城郭だなと改めて認識しました。都度改修され積み方の違う石垣、刻紋などまたじっくり見学したいものです。

北郭城門が旧額田町の天野屋敷跡、二ノ門が西尾市西浅井町の宿縁寺に移築されています。岡崎市下青野町の慈光寺に太鼓楼と言われる建物が移築されているようです。

歴史
隠居郭石碑











康生元年(1455年)に三河守護仁木氏の守護代西郷稠頼(つぎより)が築きました。大永四年(1524年)に安祥城の松平清康は西郷氏を駆逐し岡崎城を本城として移ります。その後、清康の死(守山崩れ)、広忠の死と松平氏の家運は衰え、広忠の子竹千代(のちの徳川家康)は織田氏〜今川氏と人質生活を強いられ、その間、岡崎城は今川氏の城代管理となります。永禄三年(1560年)に今川義元が敗死して、松平元康(徳川家康)は岡崎城に帰り自立し、三河を平定します。元亀元年(1570年)に家康が浜松城に移ってからは、子の信康が城主となります。天正七年(1579年)、信康が家康から謀反を疑われて岡崎城出て、大浜城ー堀江城ー二俣城と移され、二俣城で切腹します。その後の岡崎城は石川数正、本多重次らの管理となっていたとされます。天正十八年(1590年)の徳川家康の関東移封後は田中吉政が城主となり、関が原にて東軍に味方し筑後柳川に移封後、江戸期には慶長七年(1602年)、本多康重が五万石で入り、その後は本多氏〜水野氏〜(松井)松平氏の歴代城主ののち、明和六年(1769年)に本多忠勝の子孫の本多忠粛(ただとし)が入り、本多氏が城主として明治を迎えます。(岡崎は五万石)

清海堀(持仏堂郭側は石垣・本丸側は土の切岸)
現地説明板より
乙川からの風景
  
東郭隅櫓(平成22年(2010年)復元)
東郭南切通石垣
東郭腰巻石垣(平成20年(2008年)発見の石垣)     二の丸南東石垣
(模擬)七間門 (大手門形状 平成五年(1993年)建築)
二の丸井戸(平成19年(2007年)発掘調査で発見)
 二の丸と持仏堂郭間の空堀
二の丸と持仏堂郭間の空堀
二の丸と持仏堂郭間の空堀(西側) 
二の丸と持仏堂郭間の空堀(東側) 
太鼓門石垣(二の丸と持仏堂郭の間)
太鼓門石垣
清海堀から廊下橋を見る(アーチ部分は明治の改修)
廊下橋先天守台の鏡石
持仏堂郭より清海堀越しで復興天守(昭和34年(1959年)建築)
清海堀の本丸虎口側石垣
持仏堂郭通路石垣
復興天守
本丸埋め門石垣
埋め門横本丸石垣
風呂谷郭から本丸石垣
風呂谷門への石垣・石段
龍城堀 /正面 隠居郭の円弧を描く石垣
龍城堀側本丸石垣
 巽櫓下石垣遠望 
巽櫓下石垣
龍城堀
巽櫓下石垣
巽櫓横の本丸南袖石垣(城内で一番高い)
本丸虎口より
持仏堂郭西側下(板谷郭側)石垣と堀
本丸西側下(板谷郭側)石垣と堀
家康の産湯の井戸      持仏堂郭と本丸の間西下石垣
板谷門石垣
乙川に架かる橋
菅生川端石垣(菅生川は乙川の別称 江戸期は菅生川すごうかわ
菅生川端石垣

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