道案内 ←吉野山観光駐車場 ←花矢倉展望台 |
名阪国道(国道25号線)の針インタで下り、国道369号線を南下します。約10km先の玉立橋東詰めの信号を右折します。約1.2km先のひのき坂北の信号を通過し、さらに、約1.2km先の西峠の信号で直進して国道165号線を越えます。約2km先の榛原の信号で右折し国道370号線に入ります。すぐ約100m先のY字を斜め左の国道370号線を進みます。約4km先、内原の信号で左折し国道370号線を進みます。約3km先が拾生の信号で右が道の駅宇陀路大宇陀です。ここからさらに約7.5km先の三茶屋の信号で右折し県道28号線に入ります。約9km先、河原屋西の信号で右折し国道169号線に入ります。約3km先の吉野大橋北詰の信号を左折し県道35号線に入ります。吉野大橋で吉野川を渡って約200m先のT字を左折し県道39号線に入ります。約800m先の十字路で右折し県道167号線に入り登ります。約1km先右手が吉野神宮でここからは県道15号線になり、道なりに進みます。約2km先右手が吉野山観光駐車場です。蔵王堂周辺は道が狭いため基本的にはここに車を置きます。約700m先が黒門で、さらに約500m先が蔵王堂です。蔵王堂の西側が吉野朝宮跡で、蔵王堂からさらに約400m進んで左折し約200m先が吉水神社です。
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訪城備忘録 |
吉野山というのはひとつの山ではなく、この一帯を指す地名という事らしいです。六甲山、立山連峰ちゅうのと同じようなもんですかな。吉野城の遺構というのは乏しく、中心部は金峯山寺、蔵王堂(天正十八年(1590年)に再建)、仁王門(訪れた時は解体修理中で見られず・下層は室町初期、上層は室町中期に再建)などが残ってます。
城の遺構としては、現在、赤い大橋がある場所は堀切跡とされ、大塔宮仰徳碑(護良親王)がある所の高まりが火の見櫓跡と言われます。その他に、丈之橋も堀切跡、また、高城山(ツツジケ城)が詰城跡と言われます。
吉水神社は、明治以前は吉水院と言われていたようですが、鎌倉初期の建築物で日本最古と言われる書院が残っています。中には、源義経の隠居の間(義経が5日間滞在した)という部屋、後醍醐天皇玉座の間(後醍醐天皇が吉野に逃れ最初の行在所となったところ)という部屋があります。<双方とも、それはどうなんとも・・・^^;> また、文禄三年(1594年)に豊臣秀吉は吉野の花見の本陣をここに置いたとされます。その際の造営された小さな日本庭園もあります。
春は桜で超有名な場所、冬場なら空いてるやろうと行きました。 最高峰、最深部までは行きませんでしたが、蔵王堂〜吉水神社まででもけっこう楽しめました。(笑)
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元弘元年(1331年)または元弘二年頃には城として機能していたようです。 大塔護良親王が入り、鎌倉幕府に対して挙兵します。元弘三年(1333年)、鎌倉幕府軍六万が吉野山に押し寄せ、激戦の末、護良親王は高野山に逃れました。 その後、建武三年(1336年)、後醍醐天皇が吉野に逃れ、この地の吉水院(吉水神社)に入られましたが、手狭な為、蔵王堂に西に金輪王寺を皇居とされました。(吉野行宮・吉野朝宮) 南朝歴・延元四年(1339年)、後醍醐天皇が崩御され、後村上天皇が継がれました。南北朝の戦いの中、南朝勢は徐々に劣勢となって行き、南朝歴・正平三年(1348年)、高師直軍が吉野山に攻め寄せ、後村上天皇は五条方面に逃れられ、師直は吉野行宮、金峯山寺すべてを焼き討ちしました。
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