大和 飯貝城



ファイルNo2981


              主郭枡形虎口              

@ いいがいじょう 
  別名  
A住所:吉野郡吉野町飯貝
B目標地点:本善寺
C形式:山城  D比高:150m 
E現況:山林

F遺構等:郭・堀切・堅堀・土塁
G時代/人物:戦国期/一向衆勢力?
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  寺から30分

J撮影・訪問時期:2024年02月

  

道案内 

名阪国道(国道25号線)の針インタで下り、国道369号線を南下します。約10km先の玉立橋東詰めの信号を右折します。約1.2km先のひのき坂北の信号を通過し、さらに、約1.2km先の西峠の信号で直進して国道165号線を越えます。約2km先の榛原の信号で右折し国道370号線に入ります。すぐ約100m先のY字を斜め左の国道370号線を進みます。約4km先、内原の信号で左折し国道370号線を進みます。約3km先が拾生の信号で右が道の駅宇陀路大宇陀です。ここからさらに約7.5km先の三茶屋の信号で右折し県道28号線に入ります。約9km先、河原屋西の信号で右折し国道169号線に入ります。約1km先の桜橋北詰の信号を左折し桜橋(県道37号線)で吉野川を越えます。桜橋を越えて約100mで県道37号線は右折になりますが、そのまままっすぐ50mほど坂を上った所が本善寺です。

本善寺の境内に入り本堂の左手に墓地へも道があり、墓地の一番上に蓮如上人御厨があり、ここの左手塀沿いを奥に入ると正面が谷状になっていて両側が山になってますが、これの右手の斜面を登っていきます。よく見ると道になってますが、相当に荒れています。 尾根に近づくと塹壕のような道があります。尾根に登って少し行くとNHKの施設があり、さらに奥へ入ると城跡になります。

訪城備忘録

2015年08月に一度チャレンジしようとしたんですが、登りがよくわからんので断念してました。
尾根まで登ると広い平坦地の尾根が続き、途中にNHKの施設があります。この施設の建設時の道路や補修用の道があってもよさそうなもんなんですが見当たりません。さらに尾根を奥に張っていくと城跡北側の堀切に至ります。この堀切は主郭側との高低差がありますが、堀切内はやや風化しているのかもしれませんが、緩やかです。

城跡は頂部が主郭で、主郭北下で堀切の上に副郭の郭があり、さらに主郭西下に主郭切岸に沿って郭があります。(現況は、主郭下は小道も含めて繋がっているので一周できます。) 主郭には土塁は無く、切岸だけが防御という感じです。主郭の西側には大きな内枡形で坂虎口になっている虎口があります。これがけっこう大きくてこの城跡には似つかわしくない規模です。虎口下の郭のやや左手斜面には堅堀状の窪みが落ちてます。この先、南側へ郭が延びていて、ここには低い土塁が設けられています。南西尾根も郭があったような平坦地があります。さらに南東側の尾根は主郭下に小郭があり、尾根には堀切の痕跡のような箇所とその先の尾根先端は見張り台になったか細長い平坦地があります。南西と南東の尾根の間は大きな落ち込みになっていて大きな堅堀に見えます。

小さな城ですが、内舛形虎口は面白い遺構でした。他の方のブログなどを見ると薮薮だったりしてます。季節もあるかもしれませんが、伐採などの整備もされたのかもしれません。

城跡遠景
歴史

麓にある本善寺は浄土真宗(本願寺派)のお寺ですが、創建は文明八年(1474年)とされます。蓮如が創建し、戦国期には奈良県最大の真宗寺院だったようです。ここの門徒宗によって築城されたようです。金峰山寺(吉野山)、越智氏、木澤長政らに攻められ焼失したようです。天文六年(1546年)に寺は再興されましたが、天正六年(1578年)、織田信長の命により筒井順慶が攻め、再び焼失したようで、この時に城も落城したようです。寺は寛文年間(1661〜72年)に再建されたようです。

ただ、鎌倉末期〜南北朝期の頃は吉野城の支城であったようです。

主郭北側下堀切         主郭南下堅堀
2015年8月撮影
  
北側堀切
北側堀切(主郭北下副郭から)
主郭下南東尾根側郭と主郭切岸
主郭下南東尾根側郭
南東尾根の堀切痕?
南東尾根の堀切痕?
南側堅堀
南側堅堀
主郭
枡形虎口を上から
主郭虎口下から
主郭虎口下帯郭から
西下郭から堅堀状
西下郭と土塁
土塁
西下郭と土塁
本善寺
山門      太鼓楼
蓮如上人御厨     裏手の登り方向

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