薩摩 知覧麓



ファイルNo4243


              説明板と武家屋敷の碑  (後ろの建物の北側に御仮屋の碑があるようです。) 

@ ちらんふもと 
  別名:佐多氏御仮屋・知覧武家屋敷群

A住所:南九州市知覧町郡
    旧:川辺郡郡知覧町

B目標地点:知覧武家屋敷群・鹿児島地方裁判所知覧
C形式:平城  D比高:ーーm 
E現況:公共施設・民家

F遺構等:碑・武家屋敷群・庭園・説明板
G時代/人物:江戸期/佐多氏
H満足度: 凸凸+
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  武家屋敷群散策に約50分

J撮影・訪問時期:2025年09月

  

道案内 

指宿スカイラインの知覧インタを下り、県道23号線に入ります。約9.3km先、(南九州市役所前の信号から約700m手前)の橋を渡るとすぐに左手上に武家屋敷見学用の駐車場があります。御仮屋跡は南九州市役所の向かいの鹿児島地方裁判所知覧の裏手にあります。

訪城備忘録

他の麓には行ってないので断定はできませんが、ここの麓(武家屋敷群)は鹿児島でも1.2の規模の麓ではないかと思います。 全国的にも規模の大きな武家屋敷群としては秋田の角館武家屋敷群、山口の萩武家屋敷群があると思うんですが、また、趣の違う武家屋敷群でした。生け垣は全体の調和が取られ、剪定されていて大変きれいです。各武家屋敷には門から直線的に敷地内に入れないようになっていて、門内に屋敷内を遮る石垣が有って、いったん曲がらないと敷地内に入れないようになってます。武家屋敷群の通りもほぼ直線ですが、中間点はクランク状の道になっていて、防御を考えた道なんでしょうね。家屋としては、江戸期武家屋敷で二ツ屋と呼ばれる形式の家屋が二か所残ります。この二ツ屋は居住用の「オモテ」の棟と台所がある「ナカエ」の棟があり、独立した屋根をもっていますが、その間を小棟で繋がった形式の知覧独特の家屋だそうです。加えて、旧高城家にはおとこ玄関とおんな玄関のふたつがあるという特長もあります。庭園は全部で七つ公開されています。一か所は工事中で入れませんでした。森重堅邸庭園は池泉式ですが、その他の庭園は一応枯山水になるようです。

知覧と言えば知覧特攻隊基地の知覧特攻平和会館は外せません。先の大戦で、多数の若い命が失われたその方々の遺書などが展示されています。母親に宛てた手紙はほど内容が同じで書かされた感が強い内容でした。新妻や婚約者に宛てた手紙はやや内容が異なってました。いずれにしても、この時代があって今があると言う気持ちになりました。

歴史



島津氏四代忠宗の三男忠光が知覧に入り知覧城を居城とし佐多氏を名乗りました。天正十九年(1591年)、佐多氏は豊臣秀吉の怒りに触れ、減封上移封させられました。
慶長十五年(1610年)、佐多氏は地頭として知覧に復帰しますが、知覧城は廃城とし、地頭仮屋に居住し、江戸期を通じてこの地を治めました。

【外城・麓・御仮屋】
島津氏は江戸期に入っても武士の数が他藩より多かったと言われます。薩摩藩は居城の内城に対して外城という制度を作り、藩内を100くらいに分け外城としました。外城にはその地域を治める地頭を置き、その居館を御仮屋と呼ばれました。御仮屋に付属する武士団を配置し、その居住区を麓と呼ばれました。武士団は地域によって数十人から千人まであったようで、外城衆と呼ばれ、半農半士であったようです。


        武家屋敷群の通り     旧高城家住宅(二ツ屋形式住宅)
  
武家屋敷通り
森重堅邸
森重堅庭園(池泉式庭園)
旧高城家
旧高城家
旧高城家・女玄関
カッパのモニュメント^^; 
武家屋敷通り 
佐多直忠邸
佐多直忠庭園
武家屋敷通り
佐多民子邸
佐多民子庭園
佐多美舟邸
佐多美舟庭園
佐多美舟邸の屋根
知覧二ツ家家屋
二ツ家家屋室内
武家屋敷通り
武家屋敷通り
武家屋敷通り
 平山亮一邸 
平山亮一庭園
西郷氏庭園
西郷氏庭園の碑
西郷氏庭園
武家屋敷通り
武家屋敷通り
知覧特攻平和会館

住所:南九州市知覧町郡 

飛行場の滑走路などの史跡はほぼ残;っていないようです。滑走路や格納庫の史跡は大分県宇佐市の宇佐飛行場や兵庫県加西市の鶉野飛行場には残ります。 平和会館内にはここから旅立った隊員の遺書が数多く展示されています。また、薩摩川内市の沖から引き上げられたセロ戦の前部が展示されています。

三角兵舎
記念館ロビー・ここから撮影禁止
    ゼロ戦52丙型 (海に不時着した機体を引き上げられたもので前部しか残っていない)
ゼロ戦52丙型
ゼロ戦52丙型
富屋食堂(資料館)

近くの城・関連の城:知覧城