道案内  |
指宿スカイラインの知覧インタを下り、県道23号線に入ります。約10km先、南九州市役所前の信号で左折し県道232号線に入ります。約1.5km先で右折します。(角に知覧城の標識があります。) 約400m先左手に大きな駐車場があります。駐車場から約200mを戻りますと右手に主郭へ行く道があります。
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| 訪城備忘録 |
南九州の城は群郭式という特長があるわけですが、これはシラス台地で浸食された谷を利用して空堀として、各郭が独立した形式です。また、南九州の城は郭のことを○○城と呼称している感じです。知覧城も主郭(本丸)、蔵ノ城、弓場城、今城の郭が中核郭群で、その外側、東ノ城、式部殿城などが外郭になるかんじです。今回は中核郭群のみの訪城でした。
主郭(本丸)の北西下に大きな駐車場があります。ここに説明碑もあり、この駐車場の約200m手前、主郭(本丸)と東ノ城の間に入る道がありますので、ここに入って行きます。この遊歩道も往時は空堀だったようです。東ノ城の下を越えると左手にこれぞシラス台地の堀と言う感じの垂直の切岸で高い(深い)空堀が見えます。ただ、大木が何本かあるので見通しはやや悪いかな。
この深い空堀を越えると左手に弓場城と今城の登り口がありますが、これは後で。そのまま進むと右手に主郭(本丸)っと蔵ノ城への登り口があります。今来た道はそのまま進むと蔵ノ城と弓場城の間の深い空堀になり、その先は式部殿城方向になりますが、草木も多い状態でした。
主郭(本丸)・蔵ノ城へ向かう登城道は枡形と表記されている箇所があります。確かに曲がってはいましたが・・・。主郭(本丸)と蔵ノ城の間の鞍部の郭にでます。この郭はただっ広く、草木もほとんどない広場のような状況です。数年前の豪雨で主郭(本丸)の斜面が崩れた先の資材置き場にでもなってたんでしょうか? ここからまずは主郭(本丸)へ登ります。右手へ登り、途中から左手に塹壕のような道を登り、最後は枡形の虎口を抜けます。主郭(本丸)に入るとすぐに城址碑が立っています。主郭(本丸)は非常に大きな空間でした。草刈りはされているようなんですが、伸びた草をなぎ倒してるという感じで郭面が見えない状態です。北側に四角に窪んだ箇所があるのですが、なんだろう? 北端には土塁が延びていました。 先ほどの鞍部から主郭(本丸)の反対側へ登ると蔵ノ城です。周囲には低い土塁があり、発掘調査でわかった建物跡の柱表記されてます。
弓場城と今城は主郭(本丸)の南側にあります。登った道の中腹に二つの城(郭)の分岐点があり、右手が弓場城になるんですが、ここも小型の堀の中を進んでいる感じです。弓場城の虎口の形がすごくいいです。斜面下から両サイドの分厚い土塁に守られた坂虎口がドンとあるという感じです。郭内は低い土塁があり、郭もそこそこ広かったです。 中腹から反対側の今城に行きます。ここの虎口は坂虎口・枡形なんですが、虎口正面に障壁土塁があるような構造でした。郭内は非常に広いです。主郭(本丸)より広い感じです。郭の東側の地中から北側へわりと高く分厚そうな土塁が延びていました。
垂直に立った切岸の上に各郭があるので、必然とそうなるんでしょうけど、各郭(〇〇城)の虎口は坂虎口です。そこに枡形の要素があって、豊臣秀吉の九州攻め後くらいなのか、織豊城郭の要素が入った城に改修されているようです。深い空堀がをスカっと見たかったんですが、草木に遮られてますので、そういう訳には行かなかったです。
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駐車場横の説明板と碑
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築城時期、築城者は定かではありません。一説には平安末期に知覧忠信とも言われます。文和二年(1353年/南朝;正平八年)に島津氏四代の忠宗の三男忠光が入り、佐多氏を名乗りました。その後、伊集院頼久の一族の今給黎久俊が領しました。応永二十七年(1420年)、島津氏八代久豊が知覧を奪い返し、佐多氏が再び領主となりました。天正十九年(1591年)、佐多氏は豊臣秀吉から大幅減封の上、転封させられました。知覧は種子島氏の所有となりました。江戸期に入り、慶長十五年(1610年)、三度、佐多氏が領有しますが、知覧城は廃城となり、現在は知覧麓と呼ばれる地区の居館(地頭仮屋)に住し、佐多氏は幕末まで続きました。
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