紀伊 鳥屋城



ファイルNo3524

急峻な山頂にある城跡・守護の城にしては郭が小さいな

                尾根中間の堀切            

@ とやじょう 
  別名 石垣城・外山城 

A住所:有田郡有田町小川〜長谷川
B目標地点:金屋中
C形式:山城  D比高:270m 
E現況:山林

F遺構等:郭・石垣・土塁・堀切・説明板
G時代/人物:南北朝期?/湯浅氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  中学校裏登り口より比高230m・30分

J撮影・訪問時期:2019年02月

  

道案内 ←城跡  ←登り口

阪和自動車道の有田インタ(紀勢本線藤並駅近く)で下り、土生の信号を左折し県道22号線に入ります。約7.5km先、徳田の信号を直進して国道424号線のバイパスに入ります。約200m先で有田川を渡ると道は大きく左にカーブします。丹後の森の信号から約600m先を斜め右に入り、坂を登りきり200m先のT字手前で駐車するか、丹後の森の信号から国道を約1.8km進み、中野の信号で右折し約600m先の中学校正門で左折し、学校のフェンス沿いに進みます。約200m先が登り口で、車はその先のT字に置かせてもらいました。
 
訪城備忘録

中学校のグランド裏手の登り口から一直線に登ると東屋のある城址公園です。ここに説明板があります。ここからまっすぐ遊具の横を通って登ると次の標識があり、ここから山に入ります。まずは鉄塔横を通り抜け最初の尾根に登ります。正面に城山が見えます。ここから右手に進みU字に進みますと城跡まで600mも標識に至ります。ここからややきつい登り坂を登っていきます。登山道はきちんとしています。

城跡のある尾根が近づいてきますと左手の斜面に石積みの痕跡が見えます。そこから少し登ると西の尾根の下に至ります。標識には城跡と城山の分岐点のように書かれています。この上、西尾根から主郭までと城山山頂部分とに城域は展開しているようです。まずは西尾根です。尾根に登り西側に進むと北側に土塁が横たわり、先端に展望台という標識のあるやや広い郭に至ります。この郭から標識の左手を下りると下の郭になります。下の郭の北西側斜面に石積みの痕跡があります。ここは登城道から見た南斜面の石積み痕跡の反対側です。往時はぐるっと石垣が巡っていたんでしょうかね。下の郭の北側中間にさらに下に下りる道があり。西尾根先端の郭に至ります。南斜面を下りると登山道に戻ります。

最初に登った西尾根から東側への細尾根を行きます。巨岩を避けながら行くと岩盤の堀切があり、それを越えると主郭です。主郭には北側を残して彫り込んであり、祠があったようですが今は崩壊してました。内側に石垣がありますが、これは遺構かは?です。 主郭からいったん登山道に下り、再度東側に登っていくと城山山頂に至ります。山頂手前には郭と思われる平坦地があります。この周囲は雑木林状態で遺構ははっきりしません。東端まで行くと断崖ですが、眺望は素晴らしいです。 

東西の尾根上に郭を展開した連郭式の古い形の城跡です。それでも戦国末期まで維持された城跡ですので、西側斜面の石積みは見せる石垣でしょうか。広城の支城とは言われますが、一時畠山氏の本城とも言われますが、広城東城にあるような居住性のある広い郭はないです。強いて言えば、登城道の分岐点の箇所、その上の西尾根の郭、主郭と言われる箇所、山頂の4か所は少しは広いんですが、広城ほどの技巧性はなかったですね。

登り口
歴史

築城時期は定かではないようですが、鎌倉末期から南北朝期に湯浅氏が築城したともされるようです。永和五年(1379年)、北朝勢の山名義理に攻められ落城したという史料があります。応永六年(1399年)、畠山基国が紀伊守護職として入り、支城とし、一族、あるいは、神保氏が城に入りました。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の紀州討伐で開城し廃城になりました。

西の郭群下石積み     主郭の石積み
西の郭展望台からの眺望
尾根東端からの眺望
  
城址公園の説明板と東屋     城址公園背後の登り口
最初の尾根から城山
城跡まで600m標識        登り道途中
尾根西郭の南斜面の石積み(登城道から)
西側郭と城山への分岐点        西尾根への郭
西尾根郭の展望台と土塁
展望台横降り口    西尾根下の段の郭
展望台からの眺望
さらに下の郭への城道?      西尾根北側の石積み
西尾根北側の石積み
石積み北下の郭     石積み西下の郭
石積み北下の郭     石積み西下の郭
尾根中間の堀切
      主郭の石垣?    主郭下の尾根(堀切状)
主郭との段差(斜面)
山頂手前の郭      城山山頂
主郭
城山山頂東端からの眺望

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