紀伊 広城



ファイルNo3519


                           東の城、二重堀切の東の堀切            

@ ひろじょう 
  別名  

A住所:有田郡広川町名島
B目標地点:
C形式:山城  D比高:110m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・竪堀
G時代/人物:室町期/畠山氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  30分

J撮影・訪問時期:2019年01月

  

道案内 →登り口  →東の城跡  →館跡(養源寺)

阪和自動車道ー湯浅御坊道路の広川インタを下り、広川インタ入口を右折し国道42号線に入ります。約3.2km先(広の信号から400m)橋を渡ってすぐを右折し川沿いを進みます。200m先のY字を斜め左に入ります。約700m先の果樹園への道に左折し頂上の通信施設・果樹園作業場のところまで登りますが、車は麓の道に停めて、徒歩で果樹園のコンクリート道を登ります。果樹園の道は枝道がありますが、すべて右の道です。少し行くと(100mほど)ゲートがありますが、鍵はかかってはいないようです。麓から約1kmの道を登ることになります。
 
訪城備忘録

果樹園の中の作業道路を西城と東城の間の鞍部にある通信設備・果樹園作業場のところまで登ります。急な坂道で、おまけに狭い道です。当日、果樹園では収穫作業をされてましたので、軽四トラックがスイスイ通ってましたが、乗用車では登れないな。鞍部まで登ると左手上は西城ですが完全に果樹園でした。元々、頂上を中心に周囲を巻く帯郭で構成された郭群であったようですが、まったく城郭の遺構らしいものはなかったです。鞍部に戻り右手の果樹園に入ります。果樹園周囲は高いフェンスで囲まれています。当日作業されていた果樹園の方に教えてもらい、入って左手(北側)フェンスにひとつだけゲートがあって、ここから出て、フェンス沿いに歩いて行って、途中から左手に直登と東城の西郭に出ます。本当は城道が残っているようですが、最初が藪になっていて入り込めません。東城は西郭群と東郭に分かれます。西の郭群は尾根から最初に南側の段郭に入り、左手を回り込んで上の段郭に入り、西郭主郭というべき頂部の郭に入る道が見えます。郭の北側斜面には明瞭な竪堀がありました。西郭と東郭の間にはL字の深い堀というか堀切があります。片方は郭で止まってますが、北側は竪堀で落ちています。東郭は北側から東西にコの字で分厚い土塁が廻っている郭です。東城の主郭なんですね。この郭の東側に二重の堀切があります。明瞭で深くて荒らしい堀切です。 この堀切、紀州南部の安宅の城などに似ています。どちらか影響されているのですかね? この城、西城は遺構消滅していますが、東城だけでも充分に楽しめる城跡です。

城跡から反対の山の夕焼け
歴史

応永六年(1399年)、紀伊守護職となった畠山基国は大野城を拠点としましたが、応永八年(1401年)、広城を築城して本拠とし、大野城を次男の満則を入れたとされます。大永二年(1522年)、畠山尚順は湯川氏などに攻められ広城(西城)は落城するも、東の城は家臣額田甚三郎義正が抵抗したようです。最後は落城したのかもしれませんが、その後も畠山氏は本拠を鳥屋城に移しますが、広城は支城としては機能したようです。

東城の東の郭と西の郭の間の堀切   二重堀切の西側堀切       
西城からの眺望
城跡遠望(国道より)
東城の遺構
上の郭との切岸と郭内  西の郭群の南側郭      土塁
   城道     上の郭の虎口
西の郭北側斜面の竪堀    西の郭(上の郭二段目)
西の郭頂部土塁    西の郭下土橋?
土橋?から南斜面に落ちる竪堀   西の郭と東の郭の間の堀     
西の郭と東の郭の間の堀、 東の郭の土塁
東の郭の土塁      東の郭の郭内と土塁
東の郭の郭内と土塁
二重堀切(東の郭下)
二重堀切(東端)
二重堀切(東端)     二重堀切(東端)から南に落ちる竪堀

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