紀伊 大野城
東城・西城(藤白城)



ファイルNo3518


                    東の城西端の堀切              

@ おおのじょう 
  別名  

A住所:海南市大野中
B目標地点:雨の森森林公園・藤白神社・大野小・
C形式:山城  D比高:400m 
E現況:山林

F遺構等:郭・土塁・堀切・畝状竪堀・堀・碑
G時代/人物:南北朝期/山名氏・畠山氏
H満足度: 凸凸
I最寄の駐車位置からの主郭までの所要時間:
  20分

J撮影・訪問時期:2019年01月

  

道案内 東城   西城   登り口 県道からの林道入口

阪和自動車道の海南インタを下り、国道42号線の和歌山市方面に出ます 200m先、海南市藤白の信号を斜め右に入ります。約1km先、六堂ノ辻の信号を右折し国道370号線に入ります。約4km先、重根南の信号で斜め右の県道18号線に入ります。約1.6km先の信号で県道18号線は右折します。約4km先が願成寺を越えます。約2.5km先、山道を登り二つ目のヘアピンカーブの先の右手に雨の森森林公園への林道入り口があり、ここに右折します。約4km先右手が雨の森森林公園の駐車場です。ここからさらに進むと500mほどで未舗装の道になり、約800m先の林道終点の手前左手に登り口があります。右手に大野城登り口の標識があります。登り口から10分くらいで東城主郭に至ります。
徒歩で登る場合は海南インタそば国道42号線の藤白神社からか大野小学校側から登れるようです。

訪城備忘録

大野城は主郭のある東城、西にあり、別名藤白城、及び、東城と西城を結ぶ尾根上に中の城とに分けられるようです。東城は大きな主郭に北側に三段の段郭があり、主郭には城址碑が建ちます。主郭より西側下(比高で10mほどの落差)の尾根には堀切があり、尾根上の郭には土塁が残ります。南斜面に降りると竪堀のような地形もあり、古い「大野城」の標識もありました。西端には明朗な堀切が残ります。この堀切の先の尾根との段差は4mほどある感じです。この尾根からは中の城とも呼ばれるようです。尾根上に三段ほどの郭があります。南斜面には畝状竪堀があります。さらに進むと尾根ピークをひとつ越えると片堀切のような箇所があり、土橋と見える地形になってます。この先が西の城(藤白城)です。郭は二段で郭内は雑木林でした。北側下の遊歩道(藤白神社からの道)に浅いですが堀切が残ります。戻って郭の南斜面を降りていくと空堀が残り、土橋と思われる地形もあります。空堀は二重になっているように見えます。ただ、なんでこの辺に二重の空堀なのかが良くわかりません。いずれにしても比高が高い尾根上に戦国中期までの遺構が残っているという感じでしょうか。 ここは守護所の詰め城という事ですが、防御施設としてはしっかりしていますが後の広城ほどの明瞭な遺構でもないです。

城址碑
歴史

築城時期、築城者は定かではないようですが、南北朝期に南朝勢力によって最初築城されたようです。建武年間(1334〜37)に浅間氏、正中年間に保田氏が在城したとされますが定かではないようです。永徳二年(1382年)、山名義理(よしまさ)が大野城を攻略し、至徳年間(1384〜87年)に守護地を大野郷に移したとされます。明徳二年(1391年)の明徳の乱で山名氏は追われ、大内義弘が紀伊の守護となり、大野城には守護代として陶弘宣を置きました。応永六年(1399年)の応永の乱で大内義弘は追われ、畠山基国が守護となり、大野城には遊佐豊後守が守護代として入りました。応永八年(1401年)、基国が広城に移し大野城は次男の満則に守らせたとの言われますが、長禄四年(1460年)〜文正元年(1466年)に畠山政長が守護所を広城に移したともされます、大野城はその後も支城として機能したようです。

林道の案内板
林道入り口の標識    林道終点の登り口
雨の森森林公園駐車場からの眺望
  
東の城東下
東の城主郭     東の城段郭
東の城西下堀切
東の城尾根上
東の城尾根上
畝状竪堀
中の城堀切からの竪堀
尾根から東の城西端の堀切
東の城西端堀切
中の城畝状竪堀のひとつ
中の城と西の城の間の尾根上
西城(藤白城) 
西の城南下堀と土橋
西の城主郭     西の城北下堀切
西の城南下堀
麓より城跡方向遠望

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