美作 | 矢筈城(西尾根郭群) |
ファイルNo3769 |
@ やはずじょう |
道案内 ←西尾根遺構の最初の郭<成興寺丸> ←千磐神社 | ||
中国自動車道の津山インタを下り、津山インターの信号を右折し国道53号線に入ります。約2km先の高野の信号で斜め左に入りさらに国道53号線を進みます。(斜め右は国道429号線) 約3.5km先の野村の信号で斜め左手へ県道6号線に入ります。ここからJR因美線沿いを進みます。約20km先右手が知和駅で、さらに約1km先右手が千磐神社です。神社を越えた右手に大きな駐車場があります。千磐神社の拝殿右手から登り道があります。 |
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訪城備忘録 | ||
城域は西尾根地区と山頂地区のふたつに分かれます。西尾根遺構まで比高340m、山頂郭群まで比高430mほどあり、岡山最大級の城域の山城で、標高756mという日本でも屈指の高いところにある城跡です。一城別郭という事になるんでしょうが、西尾根城域端と山頂部城域端では660mほど離れていてその間は自然地形です。山頂郭群は古城、西尾根郭群は新城とも言われるようですが、西の郭群が山岳寺院の改修、山頂部は詰めの城として築城されたとも言うようで、西尾根の城域が新しいとも言えないのかもしれません。 いずれにしても1ページでは収まらなかったので、西尾根遺構群(矢筈城新城)の本ページと追加の詳細写真ページと山頂郭群(矢筈城古城)、及び、麓の内構居館(草苅氏居館)の三つの区域の四ページに分けて紹介します。 登城道はJR美作河井駅から北麓から山頂郭群へ登るルートと西側麓の千磐神社から西尾根遺構群へ登るルートがありますが、駅からのルートは倒木多く、斜面は急で危険な感じです。神社側から登ることをお勧めします。その神社側のルートも以前は整備されたものの、現時点(2021年)では流された箇所や急坂になった箇所などがあります。 神社背後から登ります。(標高約300m) 比高で約40m(標高約340m)ほど登った最初の尾根先端背後は切通風・堀切風の箇所があり、その先端は簡単な削平地となっていて見張り台・出丸であったようです。ここから西尾根遺構に向かってきつい山道を比高で約300m登ります。つづらになってますが、やや崩れていたり、滑りやすい坂道です。標高約590m、比高で約250mを越えたところに最初の郭があります。資料では武者隠しとあります。そこから標高約630m、比高で約40m登ったところが西尾根の最初の郭です。この郭を成興寺丸と呼ぶようです。郭は上下二段の細長い郭です。西側の眺望が効きます。上段の北側真ん中に石積みの痕跡のある虎口があります。ここを下り、やや西側へ下りて行くと北の段郭群になるようで、その先端が内構居館から見える尾根先端郭と思われますが、道がはっきりしてないためこの段郭には下りませんでした。成興寺丸から先に岩場の堀切があり、その背後が上の段の櫓台になってます。 上の段(尾根二段目の郭)の櫓台には内側に大穴があり、資料には狼煙場跡とされてますが、どうでしょうか?この尾根二段目の郭も低い切岸に区分けた三段の細長い郭になってます。下の段の東側の北側に幅の広い窪地があり、石積みの痕跡もあった大型の虎口と思われます。ここを下り、尾根の北下斜面を大規模な石垣が二カ所、小規模な残存石垣が二カ所ほど残ります。尾根二段目の郭の下郭と中郭のわずかな段差にも石垣の痕跡がありました。尾根二段目の郭の中郭と上郭の切岸はやや高く、横から見ると堀切みたいに見えます。上郭の北側下にも石垣が残ります。この北側下に大きな二区画の郭があり、これを医王寺跡とも言われ二区画の西側を客殿跡、東側を城主屋敷跡という言い方もするようです。尾根上は尾根二段目の郭の上郭から二段の小規模郭が続き、北側に規模のある石垣が残ります。 標高約660m、西尾根郭群最上段の郭(西尾根郭群主郭)も上下二段に分かれ、下郭は細長く、上郭は幅のある郭で東端には石垣の痕跡が残る大規模な土塁が郭幅いっぱいに横たわります。この土塁の南東下に堀切が一条あり、北東側の尾根側に三重堀切があります。この堀切、大規模です。 石垣の多用もあり、郭は尾根上に細長くと表現しますが幅もあり、大きな郭が並びます。確かに山岳寺院だと言われれば納得できるところもあります。西尾根郭群主郭の東下は堀切で厳重に防御され、改修の跡とは考えますが、その他にあまり防御性を感じません。 |
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歴史 | ||
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草苅加賀守衡継が天文元年(1532年)から翌二年にかけて築城したとされます。衛継は尼子氏に属し、浦上氏と争ったとされます。衛継は尼子氏から離れ、天文九年(1540年)には尼子・山名連合軍と戦ったという記録があるようです。天文十一年(1542年)、毛利氏に属し、天文二十二年(1553年)、尼子晴久と戦った記録があるようです。二代景継は尼子氏と交戦しながら、一方織田氏と誼を通じたことを毛利氏に責められ、天正三年(1575年)に自刀しました。墓がこの地にあります。家督は景継の弟の重継が継ぎ、毛利氏への忠節を誓いました。天正五〜七年(1577〜79年)、織田氏(羽柴氏)からの投降勧誘や攻撃を受けましたが撃退しました。天正十年(1582年)、毛利氏と羽柴氏は和睦をし、矢筈城は宇喜多氏に明け渡すこととなり、重継は反発したものの天正十二年(1584年)、城を明け渡し退去しました。その後は廃城になったと思われます。 |
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