備後 | 青影山城・長崎城 因島水軍城 |
ファイルNo2904 |
因島村上氏の本拠地
@ あおかげやまじょう |
道案内 ←青影山城の南の登り | |||
しまなみ海道の因島北インタを下り、県道367号線を右手に行きます。1.3km先のインター南の信号で左折し国道317号線に入ります。 500m先を右折ししばらく進むと因島水軍城の駐車場です。 青影城は因島水軍城入口からさらに国道を1.4km進み、中須賀池の信号で左折し県道120号線に入ります。3.5km先郷の信号で右折しそのまま県道を進みます。200m先の因島南中学校入口の信号を右折します。1.2km先、田龍小学校を過ぎて250mを右折します。750m宝寿寺側へ左折、寺を越えてすぐを右折し山に向かいます。400m先が前神寺、さらに250m先が車は行き止まりです。 |
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訪城備忘録 | |||
青影山城は遠目からみても城跡とわかる頂上が平らな青影山に築かれました。時間が無くて登れませんでしたが、因島村上氏の後期本城となります。登城口は北側に麓からのハイキングコース、南側の田龍町側からは中腹まで車で登れるコースがあるようです。当日は観光城である因島水軍城(尾道市因島中庄町 )に寄りました。ここは城跡では無く、昭和58年に作られた観光城です。資料館には因島村上氏所縁のものが展示されています。戦国期、現在の中庄町一帯は深い入江であったようで、村上水軍の船溜まりなどがあったと想像されます |
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村上氏の出目ははっきりしないようです。河内源氏系の信濃の村上為国の弟定国が四国にわたって村上水軍の祖とするものと、源師房系村上源氏とし、源頼清が村上氏を名乗ったともされます。 南北朝に入り、村上義弘が南朝方として活躍し勢力を伸ばしました。義弘が応永三年81374年)に死去した後、信濃村上氏より師清が入ります。師清の子の義胤には男子が三人いましたが、長男の義顕が能島。、二男の顕忠が因島、三男の顕長が来島に分立しました。初期因島村上氏は長崎城を本拠とし、その後、余崎城(向島)、青木城、青影山城と本拠を移しました。戦国期は吉充が六代目当主で早くから毛利氏(小早川氏)に従っていました。弘治元年(1555年)の厳島の戦いで貢献し向島の領有を許され、天正四年(1575年)の第一次木津川の海戦などで活躍します。天正十六年(1588年)の秀吉の海賊禁止令では能i島村上氏は本拠を追われますが、因島村上氏は向島・因島を領有しつづけました。しかし、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当然ながら毛利氏に従い西軍であったため備後を追われ、因島村上元充、子の吉国は、長州藩の船手組となり、代々続きました。 |
長崎城 2905 |
住所:尾道市因島土生町(土生港長崎桟橋) 訪城記録:城跡は、現在、生名島に渡るフェリー桟橋のある土生港長崎桟橋の横にあるホテルの敷地になっていて遺構はなく、ホテルの入口に城址碑と説明板があります。 歴史:因島村上氏の初期本拠です。二代の吉資が築いたとされます。 |
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